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(0068) 極私的『第21回現代俳句協会青年部シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか』レポート(前篇)
関 悦史 閲覧人数: 12 (2012-01-27)
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キーワード:関悦史;前衛俳句;造型俳句;高柳重信;新興俳句;
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この前の国際俳句フェスティバルに続き、去る3月7日に如水会館で行われた現代俳句協会のシンポジウム『「前衛俳句」は死んだのか』を聴いてくることが出来たのでその模様をレポートする。
宇多喜代子会長、須藤徹青年部長の挨拶に続き、第一部は金子兜太氏の講演「前衛俳句を語る」。1時間ほどの講演で「前衛俳句」の中心人物による、その内側からの回顧談である。
以下はその講演を私のメモから適宜整理しつつ書き起こしたものだが、現代俳句協会のシンポジウムは毎回録音を書き起こしたものが文書になっているようなので、精確を期す向きはいずれ出るはずのそちらの記録を参照されたい。
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「前衛俳句」は死んだのか。秩父(の盆唄)に「死んだか生きたか沙汰がない」ってのがありますが、今日はこれからの(第二部の)ディスカッションが中心でしょうが、どんなに話しても結論は出ないだろうと期待してます(笑)。
1945年から70年くらいまで、戦後俳句ももう40年くらい経って私の中の緊張感が消えて、回想風に「前衛」というニックネーム・仇名がつけられた頃の話をします。パンチの効かない話になるんじゃないかと思いますが。
「前衛」というのが盛り上がって使われた時期は60年安保の後。たまたま角川の「俳句」に「造型俳句六章」というのを出してこれが起爆剤になった。高柳重信という非常に優れたのがいて、富沢赤黄男を《父》、三橋鷹女を《母》といって、従来の枠を外れた句を作り始めて、仕舞いには多行形式にまで行った。加藤郁乎とか、他にも評論家が関わった盛んな時期。重信が軸になっての「前衛」たちの活躍がまずあった。
造型俳句論というのはその10年くらい後、近い問題意識、同じような志向があって「前衛俳句」という言葉が出たきっかけで、今まで積み重ねてきたものが、ジャーナリズム的に一気に広がった。かなり地の厚いものであったということは云えると思うんですが、何か知らないけど造形俳句論を書いたらアンチテーゼが出たってことですかね、ジャーナリズム用語として。
宇多さんが言っていましたが堀葦男が前衛俳句について訊かれて難しいことしか答えられなかったというのは、つまり分かっていなかったんですよ。定まった前衛俳句というものはないんで、あるのは個別の前衛。高柳重信の前衛とか、佐藤鬼房の前衛とか…。
第一次大戦後のアヴァンギャルドもキュビスムも出れば何も出た、(共通しているのは)ただ前向き。向いている方向が従来と事実上決別していたということ。現実を、主体を大事にして再構成した。...... (全文を読む)
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(0067)長谷川櫂さんを訪ねる
フランス堂 閲覧人数: 10 (2012-01-24)
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キーワード:長谷川櫂;高柳克弘;鴇田智哉;日下野由季;神野紗希;関悦史;宇井十間;山口優夢;
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2009年の11月1日の日曜日に俳人の長谷川櫂さんの仕事場に若い俳人の方たちとご一緒におじゃまをした。
太平洋を目のまえにしたその仕事場はあかるい日差しがそそぎこみ、晩秋の海はやさしく静かだった。
伺ったのは、高柳克弘さん、鴇田智哉さん、日下野由季さん、神野紗希さん、関悦史さん、宇井十間さん、山口優夢さんの7人の俳人の方たち。 俳句についておおいに語りあう一日となった。
この日の交流の痕跡をとどめておきたく、皆さまに原稿をいただきました。
「長谷川櫂の俳句の一句鑑賞」とそれぞれの作品一句です。
秋晴を来て星空を帰りけり 櫂
海といふ日溜まりに冬来たりけり 山口優夢
江の島の灯の窓越しに秋惜しむ 日下野由季
海の辺にテーブルのある秋の昼 鴇田智哉
うねりては穢を呑む海よ寒日和 高柳克弘
世界側は鴎の白の秋の海 関 悦史
オリーブの枝の細さよカーディガン 神野紗希
天気雨いくたび人類後の地球 宇井十間
長谷川作品一句鑑賞
老人のすぐに舌打ち秋暑し
地を打ちて音なかりけり蝶の秋
団子食ふ常磐木落葉秋の日を
宇井十間
白露やこぼれこぼれてとどまらず
第7句集『初雁』から、2002年の作とある。大きくみずみずしい葉の上 に、透明な露の玉がのっている情景を想像してみよう。露はときどき地に落ちてきえてしまうが、あとからあとから露がながれてきて同じ玉をつくるのである。 まるでディズニーアニメの一シーンのように美しいクローズアップである。「こぼれこぼれて」という中句は平明だが、なかなか出てこない表現であろう。
子規の短歌に「松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く」がある。 掲出句の表現はこれと比べると、余計な叙述を切り払って簡潔になっている分だけ、白露の美しさが際だつ。
長谷川俳句には、このようにきわめて叙情的できめの細かい表現がある一方で、非常に句柄の大きい豪胆な句もときどきある。掲出句はむろん前者の例である が、「鷹飛んでとらへし花のごときもの」(『松島』)「大いなる虚空にすくふ鷲であれ」(『初雁』2002年作)などは後者の好例である。 ...... (全文を読む)
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(0066)「ダア!」と叫ぶのみ ……
野口裕 閲覧人数: 9 (2012-01-23)
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キーワード:野口裕 ;体験;経験;
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口閉じてアントニオ猪木盆梅へ 関悦史
体験と経験が違うというのは、ちょくちょく聞く話である。和田悟朗によると、鈴木六林男もよくそれを引き合いに出していたらしい。誰が言うにしろ、体験は自分自身が直接関わった出来事、経験は直接関わらない見聞も含めての総体ということは変わらないだろう。
「新撰21」を読んでゆくと、年齢順(ほぼ?詳しくは不明)に並んでいるせいもあるが、これから体験や経験を積んで行こうとする年代と、一応体験や経験を積み、そこから得たものを俳句に活かそうとする年代とに分かれるようだ。また、それぞれの年代の中で体験を活かそうとする派と、体験はひとまず置 き経験を重視してゆく派とに、これも分かれる。
いずれにしろ、かつての戦争のように、否応なく関わってしまう体験というのは、沖縄を除いての日本、いわゆる本土では考えにくい。日本語を母語と する人々に共通する体験がない分、体験を核とした句を成立させるためには工夫がいる。また、歳時記の体系も農耕体験を核として成立していたところがあるの で、季語だけでは体験を核とした句として成立しにくい。経験も同様に、万人が共有すべき知見というものが存在しないため、個別に蓄積してきた経験を他者に 共有させるための工夫が必要になる。体験を核とするにせよ、経験を核とするにせよ、他者の目から見た俳句として成立するためには、一苦労しなければならな い。...... (全文を読む)
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(0065) 季語の在り処―原石鼎における季語との距離
平田雄公子 閲覧人数: 23 (2012-01-14)
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キーワード:季語;原石鼎;平田雄公子;
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1.始めに―問題意識
2.原石鼎における季語の在り様
頂上や殊に野菊の吹かれをり
朝顔の避けてゆゆしや濃紫
蜩や今日もをはらぬ山仕事
柿食ふや俳諧我に敵多し
茶の花のみな下向いて日和かな
岩かげを流れ出て鴛鴦美しき
門松のやや傾くを直し入る
春の水岸へ岸へと夕かな
秋風や模様の違ふ皿ふたつ
青天や白き五弁の梨の花
3.終わりに―結語
*~*~*~*~*~*
1.始めに―問題意識
有季定型の短詩=俳句にあって、特に実作者の立場からは、一句一章であろうと取合せであろうと、《季語》の斡旋問題が、常に最も重大である。そもそも季語は、歳時記の中にあるものなのか、眼前の自然の中にあるものか、作句の現場での尽きぬ二者択一である。
他方、季語本意の捉え方、季語との距離は作者である俳人個々によって異なり、また、作句現場におけるTPOによっても、違って来るものだろう。
本稿は、大正から昭和初期にかけ、輝かしい足跡を残した虚子門の俊秀、原石鼎について、その諸作品を季語に即して鑑賞・吟味する中から、その辺りを探り、季語の本来―その意義そして功罪乃至限界―を吟味・検証するケース・スタディ的試論であります。
2.石鼎句における季語の在り様
原石鼎[明治一九(1886) 年三月一九日生~昭和二六(1951)年一二月二〇日没(享年六五歳)]は、島根県簸川郡塩冶村(現出雲市塩冶町)の医家の三男(本名鼎)ながら家業を継ぐことなく(京都医専中退)、奈良吉野の次兄の診療所を手伝っていた頃、俳句に開眼、早くからホトトギス門で頭角を現し、《深吉野の石鼎》として文名を高め、その後大正一〇年「鹿火屋」を創刊、主宰となった。
以下、ランダムに彼の句作品を取り上げ、石鼎と季語との距離を、ケースバイケースに確認してみよう。
頂上や殊に野菊の吹かれをり(大正元年)
高浜虚子を驚かせ、石鼎を有名にした掲句は、現在に至る彼の代表作品の一つでもあるが、大正元年に「奈良朝報」紙(一〇月三〇日付)を経て、「ホトトギス」誌(一二月号)に発表されたものである。
さて、本2010年は、芭蕉が〈古池や蛙飛び込む水の音〉を詠んでから、三一八年目だそうだが、上掲句はその意味では、二二〇年目であった。確かに、大正期の抒情溢れる自然詠として、その画期性・芸術性において〈古池や〉にも十分比肩できる、近代俳句作品中の金字塔の一つであろう。
そしてこの場合、芭蕉と〈蛙〉・石鼎と〈野菊〉とは、それぞれの距離感には、微妙ながら、歴とした差があるのではないか。即ち、写生と云う次元でも、客観・主観の別が認められよう。つまり芭蕉にとっての蛙は、客観的な、他者としての蛙=季語であるに対し、石鼎にとっての野菊は、主観的には一体感の延長上にある野菊=季語である。丘陵の頂上で秋風に吹かれている野菊に、見たままで同調・同化している作者石鼎は、蛙に対した芭蕉とは、入れ込み方が違うようなのだ。二句それぞれ、風雅の極みに到達している点は、変わらないのだが。...... (全文を読む)
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(0064)-『子規は何を葬ったのか 空白の俳句史百年』俳句時評 第23回
外山一機 閲覧人数: 30 (2012-01-05)
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キーワード:外山一機;子規;俳句史;月並調;
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先頃、今泉恂之介の『子規は何を葬ったのか 空白の俳句史百年』(新潮選書)が刊行された。本書は主として一茶以降子規以前の俳句について論じたものである。本書の目的は、この期間の俳句の復権ということになろうか。
江戸時代後期の天保時代(一八三〇年~)から明治二十五年(一八九二年)ごろまで、すなわち一茶以後、子規の改革に至るまでの俳句は、「堕落し、救いようのない状態にあった」と多くの書物が書いている。それが本当かどうかは別にして、権威ある文学書の類が“口をそろえて”そのように書いているのだ。読者は疑いもなく信じていたはずである。私もその一人であった。
俳句史について巷間に流布しているこのような見方への疑問から書き起こされ、本書は三森幹雄や穂積永機などいわゆる「旧派」の俳人や井上井月、さらには名もない人々の句の掘り起しへと続いていく。それらは子規の俳句革新以後にあまり顧みられることなくむしろ貶められさえしてきた句であった。
私が本書の取材・執筆中にしばしば考えたのが、一般の俳句愛好家のことであった。一人の宗匠の下に何百人というアマチュア俳人がいたはずである。穂積永機には千人の弟子がいた。三森幹雄ともなると明倫講社の会員数は最終的に一万人になったと言われる。これらの人々の中にも、現代人の鑑賞に十分堪え得る俳句を作っていた人がいるのではないだろうか。
今泉の主張は、たとえばこういうところに現れている。それは端的に言えば、子規以降顧みられることはなかった句の中にも「現代人の鑑賞に十分堪え得る俳句」があるのだ、ということだ。したがって今泉が復権を目指す俳句もこの基準に則ったものとなる。この「現代人の鑑賞に十分堪え得る俳句」とは何だろうか。たとえば今泉は穂積永機の「吼えやみて流るる牛や秋の川」をとりあげ、次のように述べている。
この句に駄じゃれ、小利口、訓戒調など月並調の特徴を見出すことが出来るだろうか。(略)句全体の雰囲気は低俗でもないし、堕落しているなどとはとても言えない。むしろリアルであり、子規の唱えた写生の句に属するのではないだろうか。
今泉のいう「現代人の鑑賞に十分堪え得る俳句」とは、ごく大雑把にいえば「月並調」ではない俳句ということになろう。いわば本書は子規が葬った「月並調」ではない俳句の復権をめざした一書なのである。しかしここに疑問が残る。むしろ、「月並調」こそ復権が必要なのではなかったのか。「月並調」を低俗だとか堕落していると考えること自体を、そろそろ見直してもよいのではなかったのだろうか。そもそも「月並調」はなぜいけないのか。それが訓戒調であったり、俗受けを狙っていたりして、「文学」ではないからだろうか。しかし「文学」とは何か。今泉は「月並調とは大衆文芸の手法」と述べているが、「大衆文芸」たる「月並調」の価値について次のように述べている。
俳句が今日まで延々と隆盛を保ってきた裏には、一般の人々の広範な支持が欠かせなかった。千代女の「朝顔に釣瓶取られて」、蓼太の「三日見ぬ間の」のように、その俗っぽさによって世間に知られ、好まれてきた句は少なくない。一般の人々がこれらの句によって俳句の面白さやリズムを知り、俳句を鑑賞し、自分でも句作を試みてきた。そういう大きな潮流が底辺にあって、俳句の人気は今日まで保たれている。
しかし世に喧伝されるような俳句は、とかく芸術性に欠けがちである。俗受けを狙うと、文学的な価値とは逆方向に進み、嫌味が生まれてしまう。俳句には放っておくと易きにつく傾向があり、誰かがいつかその流れを変えないと、単なる遊びに陥っていく。言ってみれば純文学と大衆文学のようなものだ。世の中の小説が純文学ばかりになったら困るし、大衆文学だけになってもまずい。子規はその辺のことを、あまり深く考えていなかったのではないだろうか。...... (全文を読む)
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(00063) 連作俳句覚え書き
橋本直 閲覧人数: 12 (2011-12-28)
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キーワード:橋本直;連作俳句;
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現在、俳句総合誌などで散見する「連作」という用語は、もはや一つのタイトルの作品群、くらいの意味しか持たないようであるが、かつて試みられた俳句の連作とはどういうことであったろうか。俳句史的には、まず水原秋桜子らが始め、一句では表せない内容を表現しようとする要請から生まれたものであるという。井上弘美氏は以下のように定義をされている。
①独立している複数の作品に関連・連続性があること
②一句の独立性の強弱にかかわらず、複数の作品によって作品世界を表現していること
「連作俳句再考」(「俳句文学館紀要」第15号、平成20年11月)
しかしながら、井上氏の定義のように、一個の独立した作品が連続的に並ぶことによって全体で一つの世界観が表現されるとしても、既に言葉の上では矛盾がある。独立した作品が並ぶことで一つの世界観、とは一体どういうことなのだろうか。例えば絵画にも彫刻にも、一テーマの連作はある。しかしそれも、何かのストーリーに基づいていたり、表現技法の一貫性が明瞭なものはそれと分かりやすいが、現代絵画のように、素人目にはそうと言われなければ分からないものだってある。俳句もそうではないのか。
また、連作と非なるものとの差はどうつけられるのであろうか。例えば句集のタイトルは一つだ。そして句集評など読むと、その句集に一つの世界観が表現されているかのように書かれていることは少なくない。あるいは、俳句賞の応募作50句のタイトルも一つだ。その場合、50句なりの作品世界のなにがしかの統一性は前提条件と言って良いだろう。あるいは雑誌にのせた10句のタイトルもそうだ。これらはみな1テーマに基づく連作と言えば言えなくもないのではないか。もっと言うなら、1個人をテーマとすれば、その人物の作品はみな連作という見方だってできる。たとえその作者が否と言ったとしてもである。 ...... (全文を読む)
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(00062) 俳論
北川光春 閲覧人数: 20 (2011-12-08)
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キーワード:子規;乙字;吉岡禅寺洞;北川光春;碧梧桐;加藤楸邨;中村草田男;人間探求派;萩原井泉水;石井露月;
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子規の写生論と日本画
子規が写生について唱え始めたのは明治26年頃からだという。中村不折、下村為山、浅井忠などの洋画家らとの交流から洋画の手法を取り入れ写生を唱えだした。中村、下村両人とも小山正太郎の門下生であり、そして小山と浅井は当時工部美術学校設立のために招聘したイタリアの田園派画家、アントニオ・フォンタネージの教室に集まった秀才であったという。フォンタネージは講義において、画家の目的は天然物、人造物を模写することだと説き、写生の法則として天然のままに写すのではなく、取捨の必要を説いた。
しかし、画界の欧風化の傾向は、当時東京帝国大学の哲学教授としてアメリカから来日したフェノロサやその影響を受けた岡倉天心らによって、国粋復興の機運に変わっていたという。
フェノロサの美術論は明治15年、竜池会が彼を上野博物館に招いて講演せしめた「美術真説」の中で、美術の本質は、その対象とする事物の本体中に在ることを説き、美は「その術の妙想」によって発揮されるとし、写生に対する「妙想」の優位を説いている。彼は又、油絵は日本画に比して「実物に擬似する」ことに努めるが、日本の画法は、実物以外に美を求めることを主としたと言っている。このような考えのもとに生み出されたのが狩野芳崖の「悲母観音図」や橋本雅邦の「竜虎図」らの理想画であるが、子規はこれらの日本画の新しい流れに対して没交渉だったと言う。
参考 山本健吉 「子規と虚子」
乙字の「俳句界の新傾向」
明治四十一年二月、根岸短歌会の機関紙である「アカネ」が創刊された。これは前年に廃刊した「馬酔木」に代わる物で伊藤左千夫を中心に新進の三井甲之が編集を担当している。「アカネ」は短歌雑誌ではなく、小説、評論,俳句などの総合文芸雑誌であった。その創刊号に大須賀乙字の「俳句界の新傾向」が発表される。これは乙字が三井甲之と親交があったため寄稿したのである。
最初、乙字の「新傾向論」は三千里大旅行中の碧梧桐に手紙で示され、後に東京日日新聞に載り、最終的に文芸誌「アカネ」によって、公にされている。...... (全文を読む)
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(00061) 俳句論争史ー温泉百句論争ーミヤコホテル論争ー「草田男の犬」論争ー鶏頭論争
北川 光春 閲覧人数: 20 (2011-12-03)
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キーワード:虚子;碧梧桐;日野草城;草田男;子規;山本健吉;北川光春;
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明治36年10月虚子は「ホトトギス」に「現今の俳句界」という文を書き、その中で「今の俳壇は殆ど碧梧桐に代表されるといってよい。」と述べ碧梧桐の実力を認めている。しかし虚子はこの碧梧桐が前号に発表した「温泉百句」を取り上げ、技巧的に過ぎる点を指摘している。
その文に対して碧梧桐は、翌月号に「現今の俳句界を読む。」を書いて反論すると、その翌月号には虚子が「再び現今の俳句界に就いて」を書いて反論した。
これらを温泉百句論争と呼ばれている。
虚子のあらわした「現今の俳句界」においてはまず「一読して温泉百句の字に驚かされた.・・・・各句に温泉もしくは湯の字を字を入れて百区を作ったと言うことに驚かされたのである。・・・・・作者得意の技巧を各句の上に弄して一句も平凡ならしめざんとする工夫は十分に認識する事が出来た。単に文字の斡旋上の技巧のみではない、新しい素材捕まえて来て人の耳目を新たにするという得意の技量も認識する事が出来た。」
はじめは碧梧桐の温泉百句に対する賛辞を送っている。
しかし、その後「だんだん進むに連れ,又時に前句をくりかえして読むに従い、その技巧に飽き、その刺戟に慣れ、終いには種種の欠点が目に入る、不満足な感じが頭を往来する、・・・・・・最後には温泉百句は碧梧桐としては不成功の作じゃ。寧ろその欠点を多く暴露しているものであると感ぜしむる迄に至ったのである。」
と述べ温泉百句を一つ一つ例に挙げ、持論を展開していく。
そのすべてを挙げるときりがないのでひとつだけ例を紹介してみる。...... (全文を読む)
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(00060) 子規居士と余
高浜虚子; 閲覧人数: 12 (2011-11-30)
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キーワード:高浜虚子;正岡子規;河東碧梧桐;ホトトギス;俳句;発句;
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一
松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕其処(そこ)へ行って当時中学生であった余らがバッチングを遣っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四、六人の書生が遣(や)って来た。余らも裾(すそ)を短くし腰に手拭(てぬぐい)をはさんで一ぱし書生さんの積(つも)りでいたのであったが、その人々は本場仕込みのツンツルテンで脛(すね)の露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルなどであることがまず人目を欹(そばだ)たしめるのであった。
「おいちょっとお借しの。」とそのうちで殊(こと)に脹脛(ふくらはぎ)の露出したのが我らにバットとボールの借用を申込んだ。我らは本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速それを手渡しすると我らからそれを受取ったその脹脛の露出した人は、それを他の一人の人の前に持って行った。その人の風采(ふうさい)は他の諸君と違って着物などあまりツンツルテンでなく、兵児帯(へこおび)を緩(ゆる)く巻帯にし、この暑い夏であるのにかかわらずなお手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったい俎板(まないた)のような下駄を穿(は)き、他の東京仕込みの人々に比べあまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ら此の一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチングを始めた。先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争ってそのボールを受取るのであった。そのバッチングはなかなかたしかでその人も終には単衣(ひとえ)の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。そのうち一度ボールはその人の手許(てもと)を外れて丁度(ちょうど)余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬。」と軽く言って余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく人の心を牽(ひ)きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。
このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。
それから何年後の事であったか覚えぬが、余は中学を卒業する一年半ばかり前、ふと『国民之友』が初めて夏季附録を出して、露伴の「一口剣(こうけん)」、美妙斎(びみょうさい)の「胡蝶」、春の屋の「細君」、鴎外の「舞姫」、思軒の「大東号航海日記」を載せたのを見て、初めて自分も小説家になろうと志し、やがて『早稲田文学』、『柵草紙(しがらみぞうし)』等の愛読者となった。それから同級の親友河東秉五郎(かわひがしへいごろう)君にこの事を話すと、彼もまた同じ傾向を持って居るとの事でそれ以後二人は互に相倚(あいよ)るようになった。それから河東君は同郷の先輩で文学に志しつつある人に正岡子規なる俊才があって、彼は既に文通を試みつつあるという事を話したので、余も同君を介して一書を膝下(しっか)に呈した。どんな事を書いて遣ったか覚えぬがとにかく自分も文学を以て立とうと思うから教を乞いたいと言って遣った。それに対する子規居士の返書は余をして心を傾倒せしめるほど美しい文字で、立派な文章であった。これから河東君と余とは争って居士に文通し、頻(しき)りに文学上の難問を呈出した。居士は常にそれに対して反覆丁寧なる返書をくれた。それは巻紙の事もあったが、多くは半紙もしくは罫紙(けいし)を一綴(つづり)にし切手を二枚以上貼(は)ったほどの分量のものであった。..... (全文を読む)
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(00059) 俳人蕪村
正岡子規 閲覧人数: 17 (2011-11-18)
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キーワード:正岡子規;蕪村;芭蕉;
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緒言
芭蕉(ばしょう)新たに俳句界を開きしよりここに二百年、その間出(い)づるところの俳人少からず。あるいは芭蕉を祖述し、あるいは檀林(だんりん)を主張し、あるいは別に門戸を開く。しかれどもその芭蕉を尊崇するに至りては衆口一斉に出(い)づるがごとく、檀林等流派を異にする者もなお芭蕉を排斥せず、かえって芭蕉の句を取りて自家俳句集中に加うるを見る。ここにおいてか芭蕉は無比無類の俳人として認められ、また一人のこれに匹敵する者あるを見ざるの有様なりき。芭蕉は実に敵手なきか。曰(いわ)く、否(いな)。
芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべきものたること論を竢(ま)たず。この点において何人(なんぴと)かよくこれに凌駕(りょうが)せん。芭蕉の俳句は変化多きところにおいて、雄渾(ゆうこん)なるところにおいて、高雅なるところにおいて、俳句界中第一流の人たるを得。この俳句はその創業の功より得たる名誉を加えて無上の賞讃を博したれども、余より見ればその賞讃は俳句の価値に対して過分の賞讃たるを認めざるを得ず。誦するにも堪(た)えぬ芭蕉の俳句を註釈して勿体(もったい)つける俳人あれば、縁もゆかりもなき句を刻して芭蕉塚と称(とな)えこれを尊ぶ俗人もありて、芭蕉という名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、咳唾(がいだ)珠(たま)を成し句々吟誦するに堪えながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく瓦礫(がれき)とともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村(ぶそん)とす。蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところありて、かえって名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしと、蕪村以後の俳人のことごとく無学無識なるとに因(よ)れり。著作の価値に対する相当の報酬なきは蕪村のために悲しむべきに似たりといえども、無学無識の徒に知られざりしはむしろ蕪村の喜びしところなるべきか。その放縦不羈(ほうしょうふき)世俗の外に卓立せしところを見るに、蕪村また性行において尊尚すべきものあり。しかして世はこれを容(い)れざるなり。
蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり。蕪村歿後(ぼつご)に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝わらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言えり。これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。ある時小集の席上にて鳴雪(めいせつ)氏いう、蕪村集を得来たりし者には賞を与えんと。これもと一場の戯言なりとはいえども、この戯言はこれを欲するの念切(せつ)なるより出でしものにして、その裏面にはあながちに戯言ならざるものありき。はたしてこの戯言は同氏をして蕪村句集を得せしめ、余らまたこれを借り覧(み)て大いに発明するところありたり。死馬の骨を五百金に買いたる喩(たとえ)も思い出されておかしかりき。これ実に数年前(明治二十六年か)のことなり。しかしてこの談一たび世に伝わるや、俳人としての蕪村は多少の名誉をもって迎えられ、余らまた蕪村派と目(もく)せらるるに至れり。今は俳名再び画名を圧せんとす。
かくして百年以後にはじめて名を得たる蕪村はその俳句において全く誤認せられたり。多くの人は蕪村が漢語を用うるをもってその唯一の特色となし、しかもその唯一の特色が何故(なにゆえ)に尊ぶべきかを知らず、いわんや漢語以外に幾多の特色あることを知る者ほとんどこれなきに至りては、彼らが蕪村を尊ぶゆえんを解するに苦しむなり。余はここにおいて卑見を述べ、蕪村が芭蕉に匹敵するところのはたしていずくにあるかを弁ぜんと欲す。...... (全文を読む)
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(00058)月に問はん字余りを説きし輩のその陰謀
獅子鮟鱇(石倉秀樹) 閲覧人数: 17 (2011-11-14)
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キーワード:字余り;正岡子規;獅子鮟鱇;石倉秀樹;
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実は昨日、往復100kmを走破して国際俳句誌『吟遊』『世界俳句協会』でご一緒させていただいている秋尾敏さんのお宅「鳴弦文庫」にお邪魔し、用事をすませた後、正岡子規の『俳句分類』を拝見した。江戸俳諧の12万句を正岡子規が転記し、分類したもの。
甲号、乙号、丙号、丁号の4種に区分され、甲号は季語による分類で分量が多い。
乙号は季語以外の言葉、句のテーマといえる語句による分類。
丙号は形式的分類、丁号は、よく見なかった。
秋尾さんが、まあ見てください、といったのが、乙号と丙号。
わたしが述べた感想は、さすが子規には漢詩の素養があった、ということ。
まず乙号は、漢詩でいえば詩眼となっている語句を基準に俳句を見ようというものだ。乙号は、甲号の季語に重きを置かない句作りを集めたもので、つまりは、無季俳句へとつながるものだろう。漢詩も季節の言葉は使う、しかし、あくまでも詩眼となる言葉の方が重要で、季節の言葉は、詠物の詩でもない限り、詩情の背景を描くに過ぎない。...... (全文を読む)
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(00057) 字餘りの和歌俳句
正岡子規 閲覧人数: 16 (2011-11-14)
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キーワード:字餘り;和歌;俳句;字余り;正岡子規;
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短歌三十一文字と定まりたるを三十二文字乃至三十六文字となし俳諧十七字と定まりたるを十八字乃至二十二三字にも作る事あり。これを字餘りと云ふ。而して字餘りを用うるは例外の場合にて常に用うべきにあらずとは歌人俳諧師等が一般に稱へ來れる掟なり。されど此掟程謂(いは)れなき者はあらじ。
三十一文字と定め十七文字と定めし事もと是れ人間が勝手につくりし掟なればそれに外れたりとて常に用うべきにあらずとは笑ふべき謬見(びうけん)なり。字餘りと云ふ文字を用うればこそ此謬見も起るなれ、試みに字餘りと云ふ文字の代りに三十二字の和歌三十三字の和歌十八字の俳句十九字の俳句と云ふが如き文字を用ゐなば字餘りは是れ字餘りにあらずして一種新調の韻文なる事を知るに足らん。新調の韻文を作るに何の例外と云ふ事あらんや。
或人曰く字餘りの和歌俳句は句調あしく口にたまる心地す故に好んで用うべからずと。稍ことわりあるに似たれど再び考ふればこれも亦謂れなき事なり。句調惡しとか口にたまるとか言ふは三十一字又は十七字を標準としての上にて言ふものにして例へば十七字卅一字のつもりにて吟ぜし者が十九字卅三字等ならんか自ら句調惡しく口にたまらざるを得ず。是れ其句切りの長短、發音の伸縮など總て三十一字十七字に適して三十一字十七字以外に適せざればなり。初めより十八九字又は三十二三字の覺悟にて之を吟ずるか若しくは虚心平氣にて敢(あへ)て三十一字十七字と豫定せずして之を吟じなば句調のあしき處もあらざるべし。先づ入る者は主と爲るとか十七字三十一字と古き世より定まれるが故に耳も口も此調に許(ばか)り馴れたるものとおぼし。...... (全文を読む)
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(00056)俳句の季語
大坪重遠 閲覧人数: 19 (2011-11-02)
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キーワード:季語;大坪重遠;定型;無季;歳時記;自由律;575;
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・句会にて
先日の句会でのことです。会がひとまず終わった後、みんなで、がやがや感想を言い合っていました。
ある人がこう言いました。
「今日の会の中で、メジロの句を良いと思ったのですが、私の持っている歳時記では目白は10月の季語になっています。今は2月ですから、残念でしたが採れませんでした」。
それがきっかけになって、季語について、いろいろの意見が飛び交いました。
「メジロなんて年中いるよ。今日だって、わが家の庭に来ていた」と言った人がありました。
ここでまず、季語について一言言わせて下さい。
俳句の入門書などには、俳句の条件として、5,7,5の『調子』になっていること、『季語』が入っていること、「や」「けり」などのような『切れ字』を入れると良い、などのことが挙げられていることが多いのです。
季語とは、雪=冬、月=秋、花=春のように、季節を端的に感じさせる言葉といってよいでしょう。
また歳時記というのは、時期ごとに分けて、季語についての解説、例句をならべた本で、季語の字引のようなものであります。
さて、先ほどの議論に戻りましょう。
あるメンバーは「季語を時期に当てはめるのに、四季に分けるのなら分かるが、月単位にまで細かく分けて決めつけては、窮屈過ぎやしないか」と発言されました。
さらに「昔、旧暦の時代に決めた季語が、今の新暦では合わなくなっているのもある。たとえば朝顔は、歳時記では秋の季語になっているが、現実には、今では朝顔の花は夏だものね」。
これに関連して思い返してみれば、最近では秋桜、つまりコスモスだって、遺伝子操作の作品なのでしょうか、初夏から秋まで、ずっと咲き続けて人々の目を楽しませるようになっている種類も多いのです。
「九月の季語、10月の季語と分けてみても、9月30日と10月1日と、実態がどう違うのかね」、これは私が言ったのでした。
借金から逃げ回っている人にとっては、約束の日の区切りの両側には、天國と地獄の差があるのでしょうが。
ある人からは、こんな話も出ました。
先ほどの俳句界のお偉方たちの会議で、句のなかに無季俳句を入れるか入れないかの論争があって、さる女性の権威が「無季を入れるならば、私は抜けます」と固執し、押し切られたのだそうです。
また、今夜の句会の長老は、これに関連してこんな意見を仰いました。
「私は絵も描くのだけれども、書き終わったときには大した出来でもないと思った絵でも、一旦、額縁に入れると、見違えるように良く見えることは、たびたび経験するよ。一定の枠にはめ、形を整えることは大事なことだよ」。
これは、無季俳句だけでなくて、5,7,5によらない自由律俳句にたいする批判でもあります。
・愚考
俳句に関する私の愚考妄語の最初は、季語の件です。
最近のように、海外旅行が日常茶飯事になってくると、あくまで季にこだわろうとしても、日本での正月の時期に南半球へ旅すれば、そこは暑さの盛りなのであります。また、土地によっては、日本の四季の区別とは別に、乾季とか雨季とかの季節に分かれているのです。
そんな土地をどう扱うかの問題があるように思います。
・常夏の夏も季題の内なるや
というのは、私が1999年9月に、インドネシアのバリ島で作った俳句モドキであります。
まともな議論を展開しようとするのならば、高名な俳人の句を引いて論ずるべきと思います。それを、あえて自作を持ち出しましたのは、いかに私が愚か者であるかを証明するためであります。..... (全文を読む)
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(00055)高柳克弘『未踏』評―新しい物語へ―
神野紗希 閲覧人数: 17 (2011-10-28)
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キーワード:高柳克弘;神野紗希;『未踏』;評論;
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1.未踏の地への憧憬
―たとえば、星と海底―
ことごとく未踏なりけり冬の星
句集の表題句であり、全357句の巻頭を飾る句だ。つめたい空気の中で、鋭くかがやく星の光を仰ぎみている。あの星も、この星も、視界に広がる満面の星は、「ことごとく」人類未踏の地だという感慨が、憧憬とともに描かれている。作者は、いつかあの星のどこかへ行ってみたいと、科学少年のように、夢想しているのだろう。吐く息の白さ、かじかむ手や足先、マフラーのあたたかさや、風に擦れあう枯草の音まで思われる句だ。
いや、自然の中でなくてもいい。たとえばマンションの小さいベランダで、自分で沸かしたコーヒーを飲みながら、手すりに頬杖をついて、星を眺めている。そんな光景もいい。状況を特定しなくてもよいのは、この句の主眼が、風景の描写にはなく、何か目に見えない真理を捉えることにあるからだと思う。
地球にも、物理的に、人間に未踏の場所がある。それは、海の中だ。
うなそこの垣や柱や星祭
うなそこは波音知らず天の川
青梅雨や櫂のとどかぬ水底も
一句目、海底の遺跡だろうか。「星祭」という空を見上げる日に、海底の遺跡を思うのは、少し不思議だが、決して行けない未踏の場所だという点では同じだ。それに、誰にも見つからず忘れ去られてしまった遺跡も、「星祭」も、伝説の風合いを持っている。海底から星空までの長い長い幅が、織姫と彦星の二人を引き離している時間と距離とを、はるけく思わせもして、広い句だ...... (全文を読む)
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(00054) 「俳句」という名称の成立
秋尾 敏 閲覧人数: 19 (2011-10-25)
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キーワード:俳句;秋尾敏;子規;俳諧;人來鳥;
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1 はじめに
「俳句」という名称については、既に昭和40年、松井利彦の労作『近代俳論史』に、明治10年の成島柳北『香風夜話』中の用例や、明治13年『風雅新誌』の部立てなどが紹介され、また三森幹雄の『俳諧明倫雑誌』にも多くの使用例があることが示されている。
しかしこの指摘を見逃している論も多く、いまだに俳句という言葉が一般化したのは子規以降の明治30年代だと考えている向きも多い。
私の考えでは、「俳句」という名称は、明治10年前後から、俳諧の伝統の中心とはちょっとはずれたところで、発句を連句の第一句としてではなく、独立したひとつの文芸のジャンルとして扱おうとする人々によって使われだしている。
資料の多さにもかかわらずこうした認識が一般化しなかったのは、俳句の近代化が子規以降のことだとする先入観のせいであろう。
たしかに近代の詩のひとつとしての俳句がどのようなスタイルであったらよいかを具体的に示したのは子規である。
しかし、子規以前の、いわゆる旧派の宗匠たちも、明治という時代に対処すべくさまざまな工夫を残しており、それが結果的に作品の成功につながっていないからといって無視してよいことにはならない。
そのことを明治20年代から遡る形で検証してみたい。
2 滑稽系の風雅誌
明治二十年代、東京や大阪を中心に、点取俳諧の大ブームがまき起こる。子規が俳句革新を言い始める直前のことである。
その背景には、学校という教育制度が成功し、また活版印刷による新聞が普及して、日本の多くの大衆が、文字を使えるようになったという歴史の歩みがある。
また、郵便という制度が機能し、俳諧を集める文音所が、全国規模で俳句を集めることができるようになったという状況も忘れてはなるまい。
しかしこの流行は、ひとり俳諧だけの世界に閉じた現象ではなかったのである。そこには点取俳諧の俳誌よりもっと通俗的な、「どどいつ」とか「なぞかけ」とかの大衆文化とも連動した雑誌が存在した。それらを「滑稽系の風雅誌」と呼んでおこうと思う。
子規以前ということであれば、月並の代表格である三森幹雄の『俳諧明倫雑誌』などは、むしろ明治の俳諧という文化の中心に位置付けられる雑誌であろう。
もともと俳諧は、和歌から枝分れした周縁の文化であろうけれども、しかしその内部にも中心と周辺はあり、『俳諧明倫雑誌』の外側に夜雪庵金羅らの点取俳諧があるとすれば、さらにその周縁に、例えば仮名垣魯文に連なる滑稽の文芸が存在する。
そうした層の内部にも、投稿という手段で結ばれた「座」が存在し、そしてそのもっとも大衆的な周縁の「座」から立ち上がってくる近代というものの重要性もまたあるのである。
3 『人來鳥』
人來鳥(ひときどり)はうぐいすの異名だが、これは東京市京橋区木挽町の初音会より発行された滑稽系の風雅誌で、この題は「人気取り」に掛けているのであろう。
情歌(どどいつ)や謎、狂歌、川柳などと並んで俳句が扱われており、月並の点取をさらにポップにしたようなレベルの大衆誌である。...... (全文を読む)
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(00053) 彌榮浩樹の評論 「1%の俳句― 一挙性・露呈性・写生」を読む。
江田浩司 閲覧人数: 19 (2011-10-11)
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キーワード: 彌榮浩樹;1%の俳句;江田浩司;
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「1%の俳句―― 一挙性・露呈性・写生」は、第五十四回群像新人文学賞評論部門の当選作である。俳句評論が群像評論賞に当選したということは、この賞に関するこれまでの歴史を考えれば、極めて画期的なことであることは、誰の目にも明らかであろう。因みに短歌評論では、今までに一度だけ、上田三四二が第四回に「斎藤茂吉論」によって受賞している。
>これまで俳句評論が、この賞にどれだけ応募されたのかは分からないが、この度の彌榮の受賞により、俳壇という閉鎖空間から一般的な文学ステージに向けて、俳句評論が盛んに書かれることが期待される。ただし、その評論が評価される場が、専門的な俳壇ではなく、一般的な文学ステージであることの自覚のない者には、たとえ、自己の俳句観に基づき専門性の高い評論を書いたとしても、おそらく賞の栄誉に浴することはないだろう。
>彌榮の評論を読んでまず感じることは、この評論が賞を受けるべくして受けたという印象が強いことである。この評論は一般的な文学ステージに向け、何をどのように書けば、賞に値するものになるのかがよく練られており、俳句の素人が読んでも理解できるように平易な言葉で書かれている。
>彌榮は自己の俳句観に基づいて選出した1%の俳句のみを対象として、俳句のすぐれた固有性を論証する作品として特化する。いや、1%の俳句のみが、本当に俳句という名に値するすぐれた文学作品であることを示そうとするのである。しかし、それは芸術至上主義的な立場から論じようとするものではない。例示された俳句は、むしろ私たちに身近なものである。
>彌榮の例示した五句を次に引用したい。
>鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
>遠山に日の当たりたる枯野かな 高浜虚子
>くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏
>甘草の芽のとびゝゝのひとならび 高野素十
>階段が無くて海鼠の日暮かな 橋 ■石
(■は門がまえに月。はしかんせき)
>最後の■石の句以外は、一度くらいは中学の教科書でもお目にかかる、それぞれの俳人を代表する有名な「写生」句ばかりである。彌榮はこれらの句を素材にし、「一挙性・露呈性・写生」という三つのキーワードを中心にして、俳句が内在する性質の相互の関係性に軸足を置いた論証を進める。そして、後半に「写生」の正体の追求に焦点を絞りつつ、ネルソン・グッドマンの『世界制作の方法』を援用して持論をまとめるのである。この構成は実に分かりやすく、それほど俳句に詳しくない者でも、すぐれた俳句の固有性を理解できたような気持ちにさせられるものだ。少なくとも賞に応募する限りは、賞の受賞が目的であり、その意味では、この評論の論証の仕方は成功していると認めざるを得ない手際の良さがある。...... (全文を読む)
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(00052) 「1%の俳句」と「鳥籠は鳥のような何かを得る」
山田耕司 閲覧人数: 89 (2011-10-11)
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キーワード:彌榮浩樹;「1%の俳句」;「鳥籠は鳥のような何かを得る」;山田耕司;
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「第54回群像新人文学賞」が発表され評論当選作として、彌榮浩樹「1%の俳句—一挙性・露呈性・写生」が選出され、「群像」6月号に掲載された。評論部門には129本の応募があり、そこからの受賞。選考委員は、伊藤たかみ、絲山秋子、田中和生、長嶋有、松浦寿輝(敬称略)。
◇
彌榮浩樹といえば、昨年刊行された句集『鶏』の清冽な句群が記憶に新しいところであった。世界観に作者ならではの弾力があり、その作者の俳句論ということで、受賞の報に接して、はやく読んでみたいと願ったほどであった。
あらかじめ読後の感想を申し上げれば、この文章は彌榮浩樹の<信仰告白>。
彼が俳句の「固有性」と認ずるものを以て、彼が俳句をいかなるものと捉え帰依しているか、それは記述してある。そのことを疑うものではない。信仰への口出しをすべきではないという配慮があるからである。
しかし、この文章をして<俳句形式の固有性から言語表現の「謎」を見通す画期的芸術論>(目次における当文章へのキャッチコピー)とウタイアゲている文言に接して、はて、どこをもって「画期的」なのか、その疑問に立ち止らざるを得なかった。
◇
「お〜いお茶」のHPから句を引用し、それらを<一般大衆が趣味として行う膨大な営為>と位置づけ、それとは別に<少数の、一流の、すぐれた作品群もきっと存在する>として、これらの存在を語り得てきただろうか、という問題提起から文章は始まる。「例えば」として次の五句を掲げる。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
遠山に日の当りたる枯野かな 高浜虚子
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏
甘草の芽のとび/\のひとならび 高野素十
階段が無くて海鼠の日暮かな 橋 閒石
おそらくこれらの句が、その1%の例示なのである。
この小論で明らかにしたいのは、先鋭的な文藝形式としての俳句の固有の性質についてである。最先端の世界文学・詩型としての俳句性の核とは何かの探求である。ただし、それは、ことさら前衛的な実験的な俳句について語ることでは全くない。もちろん、真に優れた文藝作品であるならば、そこには本質的意味での前衛性、実験精神、難解さは必ずある。謎のない一流の藝術作品など存在しないはずだ。しかし、そのことと、ことさら前衛・実験的な方向へ走ることとはまったく別である。俳句においては、数々のルールを破り実験的な作品をつくることは、実は、たやすい。しかし、俳句とは、わずか十七音に課せられたすべてのルールを無理に満たすところにその醍醐味が現れる、そんな文藝型式なのだ。短歌との違いも、音数の少なさという量的な違いだけではなく、数々のルールの縛りが輻輳しているための言語表現の質的歪みにある。こうした俳句の固有性を前提にすれば、真に前衛的な実験的な俳句とは、ルールからの逸脱にではなく、あらゆるルールを引き受けて実現しようという伝統の遵守にこそある、というのが僕の立場である。この小論は、前掲した五句を中心に考察しながら、今まで語られてこなかった俳句の深淵を明らかにしよう、そんな目的を持っている。つまり、圧倒的多数の99%の大衆文学的俳句先品によって蔽い隠された1%の俳句の核の追究、それがこの小論の目的である。
あらかじめ、1%の優れた句の存在という前提を承認しなければこの文章は読み進められない。1%という数字はあくまで喩であるとしても、すぐれた句とは客観的に普遍的に優れていると筆者が考えているフシがうかがえる。
「例えば」という言葉でこの五句を出してくるのだが、どうしてこの五句なのかがよくわからない。この後に繰り広げられる説明は、どうです、この五句において僕の説は証明されているでしょう、という調子で進んでいくのだが、であればこそ、「例えば」とは、何のたとえだったのかを前提として示さなければならない。結局、筆者が「いい俳句」と「思っている」句、1%の句、ということなのだろうか。
対象を限定した方が論じやすいのは、よくわかる。しかしいくらなんでも乱暴。まず、ここから読者としてうまく乗れない。
この段階においてさえ「前衛」という言葉の使い方が無検証。それは「伝統」についても無検証である可能性が高いだろうなあと思っていたら、やはり。...... (全文を読む)
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(00051) 彌榮浩樹「1%の俳句」を読む
関 悦史 閲覧人数: 23 (2011-10-11)
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キーワード:彌榮浩樹;1%の俳句;関 悦史;
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彌榮浩樹が「1%の俳句」で群像新人文学賞を受賞し『群像』6月号に全文が掲載された。その論文の序盤に次の一節がある。
《この小論で明らかにしたいのは、先鋭的な文藝形式としての俳句の固有の性質についてである。最先端の世界文学・詩型としての俳句性の核とは何かの探求である。ただし、それは、ことさら前衛的な実験的な俳句について語ることでは全くない。もちろん、真に優れた文藝作品であるならば、そこには本質的意味での前衛性、実験精神、難解さは必ずある。謎のない一流の藝術作品など存在しないはずだ。しかし、そのことと、ことさら前衛・実験的な方向へ走ることとはまったく別である。俳句においては、数々のルールを破り実験的な作品をつくることは、実は、たやすい。しかし、俳句とは、わずか十七音に課せられたすべてのルールを無理に満たすところにその醍醐味が現れる、そんな文藝型式なのだ。》
この「前衛的な実験的な俳句」の高らかな排除が単なる勇み足ではないことは後半を読むととわかる。つい先日更新されたばかりの「詩客」の俳句時評で、山田耕司が仁平勝、高柳重信等の引用部分等が発するどこか釈然としない感じの由って来るところを解きほぐしていたが、それらもおそらくは後半の写生論の、土台設定の恣意性から発している。
「1%の俳句」はまず俳句における一流品とその他多数の作品とを峻別しようとするところから説き起こす。彌榮浩樹は前者を1%の俳句と呼び、子規、虚子、蛇笏、素十、閒石らの作品を例として挙げる。後者は99%の俳句と呼ばれ、伊藤園お~いお茶パッケージの俳句が例示される。
そして前者に必須の要件とされるのが以下の三点である。
《1. 俳句の異様な短さによる「一挙性」。
2. 日本語のさらには言語の本質が、抜き差しならぬかたちであらわになる「露呈性」
3. 1・2を前提にした、俳句の「写生」の正体。》
1.の「一挙性」とは「季語」「切れ」「写生」「五七五の3D構造」「和歌の切断という出自」「笑い」「俳言」「切れ時」「空間」「時間」といった俳句の様々な特質が《わずか五・七・五という作品空間・作品時間の中に一挙に現出する》《異様な事態》を指し《その「一挙性」の中でしか、俳句の「写生」の本当の姿は見えてこない》とされる。
2.の「露呈性」で触れられている論点は二点、一つは日本語という言語体系の中で現われる「奇蹟」。これは「に」や「て」といった助詞が、俳句内において、複数の用法のどれとも割り切れない振る舞いをすることが日本語の奇妙さを「露呈」させるという事態をもって示される。
もう一つは、母国語として日本語を使う者同士の間に成り立つ共同主観が、名詞を提示しただけでもそれを詠嘆や感慨として授受することを可能にするという共同体性の「露呈」である(この部分は引用されている片岡義男『日本語の外へ』の平易な言い回しでは次のような事態となる《日本語の名詞としての本とは、本というもの、本というものぜんたい、本という実在物などではなく、自分にとっての本というもの、自分がかつて読んだ本、自分が思い描くことの出来る範囲内にある本、最近読んだ本、最近見かけたり手に取ったりした本などである》。この母国語内の共同主観があるから蛇笏の「くろがねの秋の風鈴」の句が、物だけしか提示していないにも関わらず感慨であるかのように受容されることになるという)。...... (全文を読む)
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(00050) 有季定型と「写生」は結婚しうるか(3)彌榮浩樹「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生」再読
青木亮人 閲覧人数: 17 (2011-10-11)
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キーワード:彌榮浩樹;1%の俳句;有季定型;写生;青木亮人;
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前回は、俳句の「一挙性」についてまとめた。
私たちは、僅か十七字にも関わらず小説等と同様に「意味=内容」の完結を求め、そこに一貫した主体のありかを求めてしまう。
その結果、一句における無意味・恣意的な事物の提示がかえって読者に「意味」をうながすことになる。
彌榮氏はこれを俳句の「一挙性」と名付けたのであり、それを実際に「階段が無くて海鼠の日暮かな」で検討したのが前回だった。
その際、「一挙性」の「歪み」について触れることができなかった。そのため、今回は「歪み」を整理した後、氏が信奉する「写生」をまとめることにしよう。
6.俳句における「歪み」
「1%の俳句」における「歪み」は複数の位相で示されており、全てを詳述するのは難しい。ここでは、俳句形式の「一挙性」がもたらす「歪み」のみ紹介しよう。
階段が無くて海鼠の日暮かな 橋 閒石
「階段が無い/海鼠/日暮」は日常で体験しうる事物や時間であり、また無関係に近い。しかし、これらが一句内に押しこまれて一挙に提示されると、「“無関係”が“無関係”のままで、一句の中で“関係”として成立する」(彌榮浩樹「1%の俳句」)。
この「一挙性」を、角度を変えて検討してみよう。
一見無関係に感じられる「階段が無い/海鼠/日暮」は、なぜ一句内に収まりえたのか?
それは、「て・の・かな」の助詞の働きによる。これら助詞が(それ自体)無関係な三者を縫いつけた結果、「階段が無くて海鼠の日暮かな」と有季定型に収まりえたのである。
この助詞について、彌榮氏は次のように述べていた。
日本語では、実体語である「名詞」「動詞」「形容詞」という「詞」以上に、「助動詞」「助詞」と分類される「辞」がより重要だが、そうした「辞」の重みが極端に表現されたものが「切れ字」なのだ。(「1%の俳句」、「群像」2011.6)
「切れ字」について、今回は触れない。注目したいのは、「「詞」以上に、「助動詞」「助詞」と分類される「辞」がより重要」という一節である。
なぜなら、俳句の「歪み」が発生する“場所”は、「詞」以上に「辞」であることが多いためである。
では、なぜ「辞」は「詞」以上に「歪み」を現出させるのか?
これを検討するために彌榮氏の論から一度離れ、正岡子規の「写生」を参照してみよう。子規が理想とした「写生」は、次のような句である。
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
「赤い椿、そして白い椿という風に――椿が落ちた」というこの句に対し、当時の俳諧宗匠は「ただごと」(素人でも詠める凡句)と批判したが、子規はこの句こそ「写生」の秀句と礼讃した。
子規が賞賛した理由は複数あるが、一点のみ挙げよう。それは、作品を読む速度(=物語言説)と内容を理解する速度(=物語内容)が合致する(と錯覚しうる)作品だったために他ならない(このあたりは絓秀実氏『日本近代文学の誕生』〔太田書店、1995〕等に詳しい)。
分かりやすく述べると、私たちは「赤い椿白い椿と落ちにけり」を読む数秒間に、句の「意味=内容」を一瞬で“風景”に還元しうるはずだ。
なぜなら、内容がごく単純である上、「椿が落ちる」という現実かつ瞬時に体験しうる出来事のため、読者は句を読み進めながら「眼前に実物実景を観る」(子規「明治二十九年の俳諧」、明治30)ように「意味=内容」を還元しうるためである。
ところで、碧梧桐句がかくも円滑に“風景”を喚起しえたのは、助詞と助動詞の使用法にあるといえよう。...... (全文を読む)
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(00049) 季語
石田波郷 閲覧人数: 20 (2011-10-10)
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キーワード:季語;石田波郷;
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季語
十七字定型ということとともに、「季語」を含むことは、俳句の二つの必須条件とされている。私も、その作句の中に必ず季語を用いている俳人のひとりだが、俳句の本質のうえから季語が必須でなければならぬという理論をもっているわけではない。俳諧学者の故頴原退蔵 (えばら・たいぞう) 先生などは季語を必須としていない。私もその説を肯定する。それにもかかわらず季語のない句を作らない。体験的にいって、作る場合にも読む場合にも季語のない十七字は何かたよりない、何かものたりない。
季語が俳句に必要とされたのは、俳句発生のはじめからで、発句(連句の初句)が当座のあいさつの性格をもち、そのおりの時候をあらわしたからといわれている。しかし必ずしも必須の条件ではなかった。ずっと後の俳諧宗匠たちが、本質を離れ形式の規矩をやかましくするために「季語」を俳句の二大条件に仕立てたといってよい。
今日俳句は季語を踏襲している。しかしながら季語のもつ季題趣味はすでに揚棄しているのである。私たちは季語そのものをうたうのではなく、自分の内的要求、あるいは観照のままにうたいでるのであって、そこにおのずから外的必然として季語がはいってくるのである。...... (全文を読む)
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