【44】待望の帰郷-台湾へ
長らく待ち望んでいた帰国の通告が、やっと昭和21年一月中ばに下ると早速新宿に行き、殘つたお金で道端に並んでいる闇市で、新しいリユックサックと軍靴一足を買ひ求め帰国の準備を整えた。
一月末早朝曇空の冷い大和を出発浦賀港に向った。港に到着するとすぐ渡船で岸壁を遠く離れた海上で待機していた7000頓級輸送船を縄はしごで艦上によじ上った。赴日にのつた淺間丸より小さく設備も貧弱で寢所はござを敷いた船艙に配置された。晝頃船はいかりを上げ、小雨の降る寒い浦賀港を緩かに動き出すと、皆がデッキの手すりにすがり、遠ざかつて行く懷しい日本の山山を眺めながら、大声で「さらば大和よまたくるまで」と合唱、さらばと日本に別れを告げた。
船は曾て冲縄激戦の海域附近に差しかかると海上に漂流している黑い機雷が数個見えてこわかった。この危險水域を避ける為船は迂廻した、航海中惡天候にあひ船は激しく搖れ、船酔が數多く出、基隆港到着も予定日よりかかったので、マッカーサー司令部配給の食糧がきれ、かつ入港後検疫等の不明理由で下船できず二日も待たされた。その間国民政府よりの食糧補給が無いため一日一食となり腹がへって困った。台湾の港にたどりついた喜びも失望となり、皆不平滿滿でしたが、国の入れ替りでどうにもならずがまんするのみでした。
【45】復員と荒れた故郷の山河
久しぶりに眺める基隆港の埠頭には、今まで見慣れ親しんだ「日の丸」の日章旗は消え、馴染みのない「青天白日満地紅」の大きな中華民国旗が南国の風にはためいていた。
甲板から見下すと岸で焚火をたき寒さをしのんでいる人達が手を振り、大声で同胞の私達を迎えているのを非常に嬉しかった。
上陸後、基隆駅から台北を経て列車で南下して郷里の台南に向かう車窓から懐かしく眺めた各地のいたる所には爆撃に晒された焼け跡が残り荒廃していた。しかし戦後新生台湾の復興再建に人々は汗を流しながらも逞しく生きていた。
嘉義で夜が明け列車に乘りこんできた通学生達は、各車内で復員の友達を尋ねさがしていた、同窓生からの呼名で再会した喜びで歡声があがった。
台南駅で下された私は私営興南バスに乗りかへると、乘客が私の身なりで海外帰国者とわかり、色色語っているうちに田舍の終點についた。
家まで一時間余りの車なき山道でバスを降りると、重たいリユックサツクを背負い急ぎ足で我が家へ向かった。その日は日ざしが強く汗だくだく、途中で遠く坂の向う側に父の姿を見た、接近すると嬉しくてすぐ大声で「おとうさん帰って來ましたよ!」と告げると父はかけ足で近づき、「よかった!無事帰って來た」すぐ私の肩から背のうを彼の肩に移しとても喜んだ。
日本から僕等をのせた復員船が基隆港に入港と聞き、丁度汽車で上北し基隆の岸壁まで私をさがしに行く途中だった。父の温い心づくしと私の無知な行動に胸が咽び感謝感激で涙がこぼれた。急ぎ足で家近くになると父は大きな声で私の帰りを知らせた。祖父母と妹はすぐ門前の石階段に立ち非常な喜びで迎えてくれた。妹達は「お兄さん!お兄さん!」と甘えてそばに近より、特に祖父は唯一人の男孫が、平安無事で海外から帰ってきた嬉しさに、私を抱きしめ白いひげで顏に寄せ、手をしきりに頭や煩を撫でながらら「馬鹿孫!日本で苦労したでしょう?もう二度とは海外に行かせないよ!」帰国を天に上るような喜びでした。母は教会からの帰り途中で私の帰国を知らせれ、息をきらしながら帰りつくと、すぐ私の手を両手で握り嬉し涙を流し「平安無事に帰つてきてよかった、毎日神樣に祈りつづけていた!」母の語りで:私が親の許可無しで空C廠に志願した為毎日祖父に「孫をかへせ」と責められ大変とのことでした,今尚慚愧で心が痛む。近所の村人達は大勢我家に押しかけ私の帰国を見に來た。
馬鹿孫の帰国に喜んだお祖父さんは、特に一番大きな豚を殺し、親せき及び全村の人達を招き、盛大な祝宴で皆の乾杯を受け私の帰りを祝った。
一先づ落ちつくと父は、豊富な社会経験から一人息子である私の将来を心配して、先ずは国語となった中国語(北京語)の勉強に役立つと考え、漢文を習うべきと言い、私は家から一時間ほど離れた郷里唯―の漢文塾で四書五経を習い始めたが、年輩者の古くて無味乾燥な教学法は意味も解らずただ暗誦のみでがっかりしている最中に、毋校の台南商業学校から復学通知を貰ったので喜んで早速復学した。
中学生時代に住み慣れた台南には、台湾最大の日本海軍台南航空隊の飛行場及び台湾軍第四部隊等の駐屯地として重要な軍事施設があったために、米軍機の空襲は熾烈で大被害を蒙っていた。市の中心部にあった台南州庁舎は猛爆で被害甚大、殘っているのは外郭のみとなり、台南州庁舎前の円形ロータリー広場に隣接する清朝時代の貴重な文物を展示保存していた台南歴史博物館も被弾し瓦礫と化していた。当時よく参観に訪れた時に、何時も笑顏で迎えてくれた、親切な日本人館長の爺さんが気掛かりで、今でもその面影が浮かんでくる。
私の生まれ育った故郷は、台南市街から遠く離れた田舎で、戦前の台南州と高雄州界の南化庄菁埔寮で周囲一帯にはのどかで豊かな果樹園が広がっていた。戦時中の1944年(昭和19年)末に第10方面軍(台湾軍)は、米国軍が一衣帯水のフィリピンから台湾南部にも上陸して来ることを想定して、バナナの産地で有名な高雄州旗山から台南州境の我が故郷までの低い山々が連なる山間部に、急遽防禦陣地を構築して持久戦で敵を迎え撃つ準備を行っていた。山腹には数多くの洞窟が掘られ地下には軍事施設が建造され大量の武器弾薬、糧秣、医薬品等の軍用物資を貯蔵し、野戦病院まで設けられていた。
帰国した時、我が家の近くで武装解除された日本兵が整然と秩序正しく、黙々と汗だくになりながら洞窟内から物資を運び出し、軍用トラック車両に積上げ国民党軍に引き渡す作業をしており、今は敗者となった皇軍兵士の無残な姿を見てせつない思いで胸が痛んだ。
帰郷後、一夜明け懐かしい村の裏山を歩き廻っていると幼馴染みの森や竹藪、緑豊かな果樹園は依然として美しく繁り、戦争知らずの猿どもが木の上で群れを成して戯むれ遊び、小鳥はさえずり、カマキリも頭を上下に振り、黒褐色のカブト虫も目前で這え歩き、草虫の鳴き声はあたかも私の帰りを喜び迎えているようであった。山道で村の叔父さんに出会うと私の無事帰還を喜び祝福の言葉を掛けてくれたが、咄嗟に「村に駐留している支那兵(中国兵)には近寄るべからず」と、特に注意するよう強く警告され、帰台したばかりで何事か全然知らずの私をびっくりさせた。
我家から歩いて数十分ほど離れた県境近くの低い丘に、規律正しい日本軍の軍服姿とは全く異なり、薄汚れたみすぼらしい草色半ズボン姿の軍服に草履をはき、竹で編んだ篭を天秤棒で担いだ中国軍兵士の一小隊が駐屯していた。村人の話によると中国兵達はほとんど無学文盲で、言葉も方言で北京語でなく軍紀も乱れ士気は低かった。
中国兵は日本軍から接收した軍用物資や缶詰を、純真無垢で正直な農家の人々に横流しで売りつけた後に、見知らぬ別の兵士が銃を片手に、やって来て軍用品を盗んだと難癖をつけて、村民を銃で脅し、無実の罪で拉致して暴行を加へ、罰金と称して金銭を強要して搾り上げた。このように無法にも自らが強引に押し売りした品物を取り戻す、卑劣で悪質な詐欺行為を働く国軍兵士の姿は、当然の如く村人の強烈な反感と嫌悪感を招いていた。このような戦後社会の変貌を見聞きして本当にシヨックであった。中国の俗語で『良き鉄は釘として打たず、良き男は兵隊に行かさず(好鉄不打釘好男子不當兵)』とあり、まさにこの事実を証明したと言える。
日本敗戦を重慶で迎えた中国国民党主席蒋介石は、戦勝国軍を代表する連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の「一般命令第1号」に基づき、台湾接収を開始した。台湾に派遣された国民党軍の先遣部隊が基隆に上陸し各地に進駐を開始すると、栄えある国軍を熱烈歓迎するために歓迎門や歓迎の歌を作曲、沿道に集った人々は小旗を振り迎えたが、草色の軍服に、草履をはいた中国軍兵士が、鍋釜や傘を背負い、天秤棒には小銃、寝具や道具を担ぎ行進する姿を見てびっくり仰天がっかり失望した。これは上陸後に残存する日本軍の反撃に遭遇して殱滅されることを想定して、敢えて寄せ集めの粗末で最低級の混成部隊を台湾に送ったと言い伝えられている。
台湾に上陸した国民党軍は近代化した台湾の豊かさに驚嘆し、幸運にも規律正しく武装解除に応じた日本軍から豊富な食糧を含む大量の軍用物資を接収すると、飢えた禿鷹のように高官や軍幹部達は我れ先に私利私欲に走り、政府高官は中国大陸からやって来た闇ブローカと手を組み、勝手に横流して暴利を貪り私腹を肥やした。また、同時期に大陸から台湾に派遣され無一文の手ぶらでやって来た国民党官吏は、戦勝国の立場を傘に着て、台湾人を解放してやったと傲慢な態度で台湾人の前に君臨し、日本人が残した膨大なる財産を効率的に手中に入れるために「台湾省日産接収委員会」と称する日本財産の接収組識を設け勝手に没収したために、国民党は世界一の金持政党に成り上がり,以党治国を掲げる国民党政府は党庫と国庫を公私混同させて、これらの膨大な政治資金を武器としてふりかざし、その金権力で特務機関と悪党を動かし,逆らい反抗する者に対しては手当たり次第に捕え容赦なく抹殺した。
さらに、地方自治である県市鎮郷(県市町村)の隅々にまで国民党による支配体制を敷くために、地方選挙のたびごとに不当に有権者や賄賂や金銭で買収し、不法行為を行い、一党独裁による長くて殘酷な専制恐怖政治を行い、台湾の人々を苦しめることになった。
私は変わり果て荒れた山河の台湾に帰ると、これからどのような進路を如何に歩むかを真剣に考え悩んだ。戦後の台湾はものすごい悪性インフレにより物価は高騰を続け、不景気の嵐が荒れ狂い失業者が巷間に溢れて、台湾の人々は日々の生活に追われ必死で生きていた。私が海軍航空技術廠で学んだ特殊金属とアルミの熔接技術は、当時の台湾では出来る人がいなかったので就職で生かせば家計の足しになると自分勝手に考えていた。しかし、父は如何なる時代でも教育は非常に大事で、進学することが肝心であると強く諭してくれた。
懐かしい台南市内の学校に戻って見ると日本人教師は全部日本に送還されたために、教員不足で、北京語の国語と算盤を除き正常な授業が出来ず自習の連続で大変な事態となっていた。私が在学中に日本の海軍空C廠に行った後の台湾も空襲と学徒兵召集で、学校はろくに勉強が出来なかったと聞かされた。戦後の国民党政府により学制も新しく六三三制となったが同期生は転換期の三月に卒業、私は一期後輩と一緒に北京語等を修得し七月に卒業証書を得ることが出来た。
【46】台南師範学校入試
戦後の台湾は国民党政府の教育制度改革により、新学制が導入されて入学期は春の四月から秋の九月に変わり入学試験も七月になっていた。1946年の夏、父の勧めで台南師範学校(現国立台南師範学院)に進学すべく入学試験願書を提出し申し込んだ。戦前には台北、台中、台南を含む各地に師範学校が存在していたが、その中でも南台湾の台南師範学校は、北台湾の台北師範学校と共に南北の双壁と称され、多くの優秀な先輩達が教育界や政界で活躍していたので、入学志願者は多く難関突破を目指し競争率は高かった。
入学試験規定で理数及び英語の課目は日本文で解答することが出来るので問題はなかったが、唯一国語である中国文は教員になるための必修重要科目であったために、すべて中国語である漢文で解答すべきと決められていた。日本から遅く帰国した私は他の人より中国語文の勉強が半年近く遅れていたので至難の技であった。私は父に師範学校の試験の中で最も難しいのは中国語即ち漢文であり、到底合格する望みがないので諦めると言ったら、父はしばし沈默の後に薄暗いカンテラの下で紙上に、日本式の漢文で「国語文尚未精通以後要努力学習(国語文は未だ通じず以後一層努力し習得する)」と書き、よく練習して覚え、勇気と自信をもって入学試験に挑めと激励してくれた。
試験の当日、落ち着かなかったが勇気を出して試験場に臨んた。中国文の試験は志願科別とは関係なく、全受験生は大講堂の試験場に集められ同じ問題で受験することになっていた。あらかじめ指定された講堂内の席に座ると試験用紙が配られ、設問に目を通すと漢字だらけで、意味が全然解らず目を白黒させながら困り果ててしまった。このままいつまで座していても解答が出来ず、如何せんと迷いながらも結局父が教えてくれた語句の短文をそのまま書いて試験官に渡し、さっさと外へ出る以外に術がなかった。一番早く出て行く私の姿を受験生は横目で見ていた。
先に外に出た私は木の下で涼んでいると試験を終へて出てきた友達や受験生が、傍に寄り「君、淒いなあ!そんなに早く答案を出して…。」全く呆れた話で空いた口が塞がらない自分をあざ笑った。後日、人から聞いて事情が分ったことであるが、日本教育を受けた同年輩の者は同じ境遇で中国文の意味も十分に理解することが出来ず解答が書けなかったとのことであり、私が何とか苦肉の策で書いた語句は点数稼ぎになったらしく、これも父の御陰である。
台南師範学校の入学試験が終ると、中国文での合格は無理と思い、ちょうど新しく創立された高雄高級(高等)水産学校が台南地区で新入生の募集をしていたので、食品加工の製造科があることに興味を感じて志願した。入学試験は台南一中の校舎を試験埸として受験して見事合格した。合格発表が台南師範より早かったので合格通知を受取ると、早速高雄港湾南側の旗後にある本校へ渡船で渡り入学手続を終えて入校したら、郷里の小学校校長の息子で台南工業学校出身の李君と出会い、学生寮の同室で仲の良い友人となり喜んだ。また、特に嬉しかったのは最初の授業で、留用中の日本人技師が日本語で講義をし教えていたことであった。
高雄高級水産学校で一週間ほど経過すると、父から台南師範の合格通知が届いたので、至急台南に帰り入学手続をせよとの手紙で、慌てて水産学校の退学手続をとったが、教務長が私を事務室に呼び水産学校を卒業して遠洋漁業の漁船に乗り、大漁の場合は利益分配が行われ、利益は教員一年分のサラリーを上まわり、前途洋々であると懇々と説き伏せ、考えを直して留まるようにと親切な話を持ちかけられたので、心が動揺し躊躇していると台南への帰りが延び延びになり、待ち焦れた父から最終の催促が届き、もし從わなければ3千元(当時の大金)をやるから親子関係を断絶すると迫ってきた。
李君に意見を聞いたら親に心配をかけずに親孝行して、大人しく台南師範に入学して教員になっても悪くないとの意見で台南に帰ることに決めた。
そして、学生証を李君に託して学校に返還し教務長には一言伝えた。寮内にある私の荷物を内緒で持ち出し渡船場まで運んでくれるように賴み、渡船で李君と名残り惜しく別れ高雄水産学校を後にして、台南に帰り師範学校に入学したのである。
後日、知人から聞いた話によると父は私の進学と将来の問題で非常に神経を尖らし、気を配り恩師や各方面の先達に相談していたことがわかった。何よりも、私はすべてについて独断専行無断勝手に親の印鑑を偽造して海軍軍属に志願した前歴あり、戦争にでもなると水産学校の卒業生は中華民国海軍に応召されるのは必然的である。また、艦船で海の生活になると何時何処でどのようになるかは不透明で心配である。しかし、師範学校を卒業して教員になれば生活は安定して落着くとの意見が多くを占めたために、父が強く師範学校入学を希望したのである。今省りみると愛情に滿ちた温かい親の心づくしに感謝の念が―ぱいで忘れられない。
【47】師範教育を受ける
私は、戦前戦後を通じて郷里で初めて師範学校に合格した唯一人で、台南師範学校に入学すると父を始め家族全員が非常に喜び村人も大いに祝福してくれた。入学すると赤煉瓦造りで重厚な師範学校校舎の景観は台南の名建築物であった。しかしこの校舎には戦時中に陸軍部隊が駐屯していたために、米軍機の猛烈な空爆を受け大被害を受けて、三階部分の屋根は全部吹き飛ばされ、赤煉瓦の壁は機銃掃射を受け弾痕だらけで、木造建ての学生寮は影も形もなく焼失して瓦礫の山となり、大講堂も破損して実習農園も荒廃していた。校内のプール、テニスコートも無差別の機銃弾を浴びて傷跡だらけで無残な姿を露出していた。私達の教室は二階に配置され、上の三階は屋根無しで雨の多い南台湾では大雨のたびごとに雨水が溜り、晴天で授業をしている時でも水滴が上から落ちて来るのでバケツで受けなければならなかった。
台湾文化の発祥地で全台首学の地古都台南に在る台南師範学校の前身は日本統治時代の、1899年4月(明治32年)台湾師範学校規則により創立された「台湾総督府台南師範学校」で、教員養成の揺籃期から多くの教職者を輩出して貢献した燦然たる歷史を有する誇り高き名門校であった。
戦後、国民党政府は台湾を接收すると戦勝国の奢りで台湾を異民族支配から解放したと君臨して、台湾人の祖国化即ち中国人化を推し進めるために、戦前に台湾人が受けた日本教育を殖民地下の奴隷教育と称して排斥し、日本語を使用すると日本人の遺毒と激しく罵しり非難して、徹底的に糾弾するスローガンを掲げ糾弾した。そのために、過去日本教育を受けた私達が教育事業に携わる師範学生になると、真先にその矛先が我々に向けられ風当たりは強く、執拗で悪意に満ちた嫌がらせの数々は極めて厳しいものであった。
国文及び歷史等の文系科目の授業は中国大陸の南部及び中部地方の各地から来た外省人の教師ほとんどを占めており、言葉は純粋な北京語ではなく方言訛りの中国語であった。他の人より遅れて中国語文を習った私には聞きとることが不可能で、漢文の意味もよく解からず、読み書きも難かしく、何時も同級生に聞き、解釈や説明等のサポ一卜を得ながら中国語の勉強に日々苦労をしながら辛辣な思いで耐えていた。幸い代数、幾何、物理、化学、生物等の理科系の科目は台湾人の教師で授業は台湾語と日本語でよかったが、化学用語も酸素を氧、水素を氫と書き、今まで見たことのない変な難しい漢字で読めず、試験になると一筆一劃と覚えて対処する憐れさであった。しかし、同級生の黄君はそれとはに関係なく化学が好きで、台湾の一流化学会社の社長となったが、私は物理が好きであった。
私の登校時の服装の身なりは日本で復員時に支給された海軍下士官服と新宿で買った軍靴で質素であったが日本帰りと言うことで人気があった。しかし国語である中国語の授業になると一番下手

で悲観と苦惱の連続であった。如何なる場合でも中国語をマスターすることは、一番大切な事と知り努力して勉強したが思うようには進まなかった。或る日、北京語の発音記号を付ける宿題にはどうにもならず、よく出来る同級生に頼んで書き写して提出したら、答案の拔きとりチェックで不幸にも引っ掛かってしまった。余りにも上手に出来ているので、教師は疑問を抱き同じ問題を差出し目前で発音記号を付けろと言い、再テストを行なったが、全然書くことが出来ず、私は皆の前で大恥を掻いた。赤面の至りで非常に悔しい思いをしたが、出来ないものは致し方なく負けてはならじと、かって日本の海軍空技廠で鍛えられた時のことを思い、人一倍に努力して修得すると志を立てて自ら闘魂を燃やしながら中国語の学習に専念した。
その後、中国語の担任は北京出身で汪兆銘政府時代に、日本に留学して日本語が話せる背の高い若き教師が赴任してきたので非常に助かった。彼の中国語は純粋で正確な北京語と日本語のカナ文字による注音符号の発音表記と四声、アクセン卜の発声法と矯正、読み書きの要領等を会得しながら、適切な教授法により確実に北京語に慣れを身につけることが出来た。さらに、クラス会の代表に選ばれた私は毎週土曜日に開かれる週会に出席して、下手ながらも終始北京語で報告が出来るようになりかなり上達した。そのお蔭で当初の学期成績表で60点の同情点数を貰っていた私は、1949年の教育庁施行令の公布で開催された、全島師範学校卒業生に対し一斉に実施された中国語文の統一学力試験で、私は第一回目で合格した数少ない幸運者の一人となった。追試にも落され不合格になった数人は卒業が出来ず同情に堪えなかった。そしてこの尊い経験により語言の重要さをつくづくと痛感させられた。
【48】悲痛なる228事件真相見聞記
第一学期の樂しい冬休みが終り新学期の手続きを行うために、1947年3月1日に台南師範学校に帰ったら生徒や事務員の姿が見えず、校内は異樣な静けさにあった。二階の教室に入ったら興奮した同級生三人が僕の姿を見ると日本語で「貴様今頃ここに来て、何をぼやぼやしているのか?、全島で大事件が発生しているのに何も知らないのか?」田舍から出て来たばかりで何が何だか全然わからず非常にびっくりした。話を聞いて始めて事件を知り、下宿に帰る途中人影も車もなく、市内の店鋪は門戸を堅く閉ざし沈黙の都市となり背筋が凍る恐怖を感じた。
ラジオ放送を聴くと、2月27日の夕暮、台北市太平町の天馬茶房前の路上で、専売局取締員の数人が闇煙草の取締を行い、逃げ遅れた台湾婦人林江邁が商品の煙草と僅かな釣銭の現金を押収され,未亡人で幼い子供を抱え生活困窮者の林氏は金銭だけでも返して欲しいと必死に哀願したが聞き入れられず、取締員は非情にも銃床で婦人の頭部を殴打して暴行を加え血を流して倒れた。その姿を眺めていた群衆が憤慨して抗議のために詰め寄ると、専売局取締員が銃を発砲したために死者一人を出した。
この暴挙に群衆の怒りはおさまらず、翌日抗議に押し寄せた民衆が行政長官公署前の広場に集まっていたところ、長官公署屋上の憲兵が群衆に向けて機銃掃射を行い死傷者十数人を出す事件が発生した。さらに、事態はエスカレートし官側の横暴に怒った民衆が台北新公園内(二二八和平公園)内のラジオ放送局(現228紀念館)を占拠して、台湾全島に事件発生の真相を伝えた。
遠因は国民党政府が台湾を接收して一年四ヶ月以来、その間「幻しの祖国」に対し大きな期待をかけ喜んだ台湾人が,中国人腐敗官吏の汚職や賄賂が公然と横行,官庁や企業の重要な役職は大陸からやって来た外省人が独占、さら駐留軍隊は無規律,特に台湾の米や穀物は大陸に横流しされ、経済は破綻し給料は遅延し物価は日ごとに高騰しており、街中には失業者が溢れ,人々は飢えに苦しんでいたので遂に台湾人民は、この放送が全土に伝播すると、3月1日以降全島各地では政治改革を求める抗議行動は民衆の騒動となり武力衝突した。
3月5日午前、私は下宿近くの台南銀座通りと称された繁華街に出ると、十字路の角に二人の台湾人青年が日本軍の三八式歩兵銃を狙撃の姿勢で構え伏せでいた。米国製大型軍用トラツクに機関銃を据付けている中国兵がこれを発見すると、猛スピードで近づき急ス卜ップ、車上から凶悪な顏つきをした中国兵が飛び降りて捉えようとしたが逆に逃げられてしまった。近くにいた人々も顔面が真っ青となり一目散に逃げて行くのを見て、私は咄嗟に身の危険を察して近くの狹い路地の中に逃れた。私は事態が予想以上に緊迫しており、このままだと危険であると直感して、直ちに下宿に帰るとカバンに日用品を入れ、早速私営バスで山中の田舍に避難した。
父に台南市内の樣子を知らせると、私に日本から持ち帰った住所名簿を早急にかまどの火で焼き拾てるよう指示した。父の第六感の判断で指示どおりにすぐ火の中に放り込んだ。
事件は各地では武装した民衆と国民党軍の衝突は激しさを増し激烈な戦闘が蔓延した。台北では事態の収拾と解決を図るために、民意代表が『228事件処理委員会』を組識して、政府に対し政治改革を求めるために協議していたが、政府は偽善を見せかけ,一方裏では秘密裏に南京の中央政府に対し,鎮圧の為増援軍部隊の台湾派兵を要請していた。
228事件の真相は厳しく禁忌されたが,38年も続いた戒厳令が解け民主自由化になると,官民とも事件真相究明で調査報告や出版物が続続数多く市場に出まわり公開され,又命拾いの生存者が現れ媒体新聞テレビによる証言報導で下記のような記述もあるが、今だ五里霧中で未解明の多き真相が今後の解読研究資料として残されている。
記載によると師団長劉雨卿の率いる陸軍21師団が3月8日夜基隆と高雄に上陸すると台湾人に対して、無差別で残虐なる武力鎮圧による大殺戮を行なった。国府軍隊に虐殺されたおびただしい死体は卜ラックで運ばれ淡水河や基隆河,高雄港内に投げこまれ、赤く染まった海面にはおびただしい数の台湾人の死体が浮かび、水面に浮き上った死体の両手平には針金で串刺しに通された、惨めな姿が発見され残虐さを物語っている。
高雄では市役所に突入した軍隊により市会議員職員34人が射殺され、高雄駅構内及び附近の高雄中学、市街でも老若男女の数千余人が無差別に虐殺され、死体は高雄港や市内を流れる愛河に投棄された。
最も殘酷極まるのは何等の暴動にも参加していない台湾知識人エリート、民意代表、大学教授、弁護士、医師、教師、牧師、作家の多くが殺害され死体は行方不明となったことである。228事件の死亡人数は二、三万人とも伝えられ、今でも正確な数字は不明であるが最近の資料によると一万人以上虐殺されたことは確かであると発表されている。
犧牲者の中で熟知の同窓生陳君の叔父で、議会副議長を務め暴力反対を呼びかけていた,湯德章弁護士が無実の罪で逮捕されると両手を後に縛られ、市の中心部にある大正公園で銃殺された事を聞き憤激と悲しみを感じた(銃殺後法庭で無罪と宣告)。祖父の話しによると彼は日本人坂本巡査(大正4年のタパニー事件で殉職)と台湾人湯氏女性との間にまれた混血兒で、若い頃郷里の我が家近くで炭焼などの苦学をして高等文官試験に合格して成功した頭の勝れた偉い人物であった。また、私の教へ子の父で東京帝大出身の王育霖検察官(王育德明大教授の実兄)、父の中学時代の恩師で東京帝大哲学科卒で米国コロンビア大学哲学博士の林茂生教授、友人の父で中央大学出身の李瑞漢弁護士(台北市弁護士会会長))も虐殺され死体は今だ未だ見つかっていない。故郷に避難して一ヶ月余り、辺鄙な田舍で外部の情勢が全然解らず強引に学校に帰ると父にせがむと、安心出来ずに台南まで同行してくれた。天秤棒に米と野菜や漬物を担い、朝霞の家から歩き一日がかりで台南にたどり着いた時には街には電燈が輝いていた。
1947年の228事件で台湾人の祖国に対するの美しく甘い夢は、無残にも打ち砕かれ悲哀の現実に目醒めることとなり、台湾の人々をして、その後の民主化運動と本土化意識を駆り立てる結果となった。
この悲劇なる不幸歴史は既に過去の痛みで取り返し出来ず、グロ-バ-ルの世界に人類同志は仇怨を拾て殺戮を止め、国境を越えた人類愛の力でお互いに赦しあい,仲よく平和で幸せな世界を築け上る事を切に祈願して止まないのである。
【49】政局激動中の学生生活
228事件の善後処理即ち後始末のために、3月18日、蒋介石の命令で国防部長白崇禧が蒋介石の長男蒋経国を随行して台北松山飛行場に到着すると直ちに台湾全土に清郷工作と戸口検査の実施を布告した。さらに、事件に参加した学生の免罪を発表したにも拘わらず、同級生の王と林君の二人は密告により事件に関与したとの理由で検挙され、重い除籍退学処分となり台湾島内での就学が出来なくなった。王君は難を逃れ大陸本土に渡航して軍官学校に身を投じた。事件以来、私達は日夜恐怖の日々を戦々恐々として過ごしていた。
事件後、日本語の出来る台湾人教師は私達に何も知らせず、何時の間にか一人二人と次第に学校から姿を消して行った。理由は不明であったが噂によると、恐らく台湾人教師達は公安当局の執拗な肅清の危害から逃れるために去ったと学生の間で密かに伝えられていたが、本当のことは判らない。
私達師範生は卒業後三年間の学校勤務が義務として規定されており、衣食住、書籍、副食費用は一切官費で支払われることになっていたが、学生寮は空襲で焼失したために、寮がなく校外で安い下宿を借り自炊生活をしていた。近くに台南第二高等女学校があり、全校生徒は元日本人女学生用の第一高女の校舎に移転したので、その空いた校舍を借用して学寮として私達が優先的に入ることが出来たのは最高学年になってからであった。
国民党政府は膨大な資金を軍備に注いだために台湾の財政が極度に悪化して、1947年初には重要な主食である米の価格が終戦当時の400倍にはね上り、砂糖も22倍となり、台湾銀行が発行した通貨量は増大膨張を続け、1948年末には4831%の高い異常数値を示し悪性インフレを招いていた。特に、私達を苦しめたのは副食費の代金や配給米は何時も数ヶ月以上遅れで支給される始末であった。さらに、通貨膨張で物価も数倍に急騰しており買うことが不可能になり、戦後父も農業組合(農会)に勤め安定した収入を得ていたが、生活費が物価高騰に追いつかず夜間はアルバイトでカンテラを携えて村中を巡り歩き、郷里の名産物苧麻(織物用の植物繊維)、薑黄(黄色染料用の植物)を買い取り、台南の安平港からジャンク船で大陸対岸の厦門に出荷している輸出業者に売却して、その僅かな利益で私への仕送りを支えてくれていた。
一方、私も月末に生活費が不足した場合には藏書の英文コンサイス辞典、小野圭英文、チヤート式幾何等(当時この参考書は稀少で高値)を本屋に質入れして生活費に工面していた。毎月のように遅れる配給米も米虫のついた不良品と量不足で、一日二食で我慢したこともあり戦時中の苦難を思い出しながらよく耐えた。下宿での自炊も燃料は枯れ葉や枯れ枝で賄い、肉魚類は高値でとても手が出せず、野菜も安い物のを買い、時には下宿附近の野生ヘチマを見つけて料理した。私が炊事当番の時に作ったヘチマ料理を食べた室友が喉がガサガサするので、家主の新婚おばさんに尋ねたら、最初にヘチマの皮を剥くことを知り皆で腹を抱えて大笑いした。しかし、何と言っても夫々の田舍から持参して来た故郷独特の自家製漬物は美味しく自慢であった。
228事件後、陳儀長官は罷免され(後日大陸で中共側に寢返り、部下に発覚して捕えられ台北で銃殺された)、行政長官公署も廃止され「台湾省政府」が成立した。初代省主席にパリ大学法学博士で駐米大使経歴を持つ非軍人の魏道明が5月中旬に赴任したが、しかし実権は国民党軍人に握られ立場は弱く、彼が残した功績は1948年10月25日から開催された台湾省博覧会のみであった。
228事件後に教育を受けた学徒兵で編成された青年軍部隊が台南の元日本軍第四部隊兵舍に駐留してきた。優秀な台湾青年や学生を軍に引きつける為に兵営門前に陸海軍軍官(士官)学校の募集ポスターが貼られていたので、放課後に同級生の黄君と二人で覗いていたら、係官が台南師範の学生とわかり親切にも師団長室に案内され面談したら、優秀なる台湾青年と誉められ空軍軍官学校に無試験で入学推薦すると言われた。黄君は乘気で私も嬉しく感じたが、父の気持ちと親子関係が不孝となると考え直し諦らめた。数年前の同窓会で黄君は「東君その時に軍官学校に入っていたら二人共今頃は將官で威張っていられたなあ!(元駐日本大使の莊海軍上將はその時分入学した台湾人学生)」と大笑いした。
時局が不安定のまま文官出身の魏主席が更迭され、軍人出身の陳誠上將(大將)が1949年1月1日に第二代省主席にとして就任した。この間、中国大陸での国共内戦で国民党軍は敗退を続けており、台湾島内は228事件後の清郷工作と共産党員の粛清の嵐で不安を極め、過去の日本教育を受けた台湾人学生は共産党や国民党についての知識も皆無で、当時の新聞や雜誌はもとより、外省人の教職員も左傾右傾で思想が混迷し大混乱を来たしていた。当時、知識人や学生の間で流行した「読書会」も字の如く本を読む単純な会と思い加入した人達は、通報や密告により共産主義者と見なされ特務機関に捕えられ、有罪が確定すると政治犯として台東沖の孤島「緑島」政治犯監獄に収監され、苦刑の末に銃殺された者も多く、頭が秀れ音楽の才能に恵まれていた同級生の蔡君もその一人で可哀想であった。
その頃よく読んだ二册の雜誌は、上海で発行された米国側寄りの「西点West point」とソ連側寄りの「時代」であり、両雑誌に掲載された記事や論説、宣伝文等を比較分析し判断した結果、私は中立を守り、如何なる組織にも加わることがなかったのが幸いであった。学校当局も日本語使用を絶対禁止して、共産主義思想や反政府行為等の言論を厳しく取締っており、学科試験も不合格になると男女を問わず容赦なく落第や退学処分にされる厳しさであった。また、教師も外省人本省人の区別なく思想に問題ありとの一方的な疑いや密告や通報で検挙し、政治犯の容疑で逮捕される白色恐怖時代となった。
創党して38年になる国民党政府は暴政と腐敗で中国人民の信賴を失なっていた。1948年2月、国共内戦中の大陸では裝備が貧弱で数十万しか無かった劣勢の共産党軍は、ソ連の軍事援助を受け中国人民の支持を得て、ゲリラ戦法と人海戦術を駆使し、中国東北部(元滿州)の国民党軍が支配する瀋陽、鞍山等の主要都市を次々と陷落し占領した。10月26日には50万兵力を有する国民党軍は潰滅状態となり総撒退した。また、12月の徐州大会戦で包囲され惨敗した国民党軍は黄河流域地帶の大半を失い、内戦の主導権は共産党軍に転じた。
後ほど舟山列島から退却して我が校に駐在していた湖南省生れで歷戦勇士の隊長と知り合い徐州の戦闘での実戦経験を語ってくれた。彼の話によると完全に包囲され補給を絶たれた国民党軍の兵士は飢餓状態にあり、共産軍の巧みな心理作戦で『中国人は中国人を撃たない、手をあげ降参しろ!』と呼びかけ国民党軍兵士の戦闘意欲を喪失させ武器の放棄、味方の寝返りでほとんど戦うことなく敗れた。投降して捕虜になった彼は湖南方言の中共軍の当番兵を腰帶に隱していた小さな金塊で買收し脱走して命拾いしたとのことであった。このように国民党軍部隊は不戦のまま地滑り状態の如く崩れ去り、大陸の赤化を早めたと無念と悔しさの中で訴えていた。
【50】時局混乱の中に巣立つ若人
年が明けた1949年は、大陸に於ける国共内戦は国民党軍の連敗で決定的な段階に直面していた時期であった。そして、私達が師範教育を終え教員として巣立つ大事な年でもあった。
同年1月23日、毛沢東の率いる共産党軍は戦車を先頭に市民の歓呼を受けながら北京城に無血入城した。この事実を伝える新聞報導は台湾の人々に大きな驚きと衝撃を与えた。2月1日、国民党政府は「台湾軍管区」を設置して、台湾全土に戦時体制を敷き、続いて5月20日には「軍事戒厳令」が施行された。これが世界一長く38年間続いた戒厳令と国民党による一党独裁政治の始まりであった。この暗くて長い軍事戒厳令下の時期では台湾人民の自由と権利は剥奪され、特務機関員やスパイの橫行と、全島に隈なく張り巡らされた公安当局の監視網とともに、厳重な思想や言論統制が敷かれた。理由も知らされず一方的に反政府分子や共産主義者の赤いレッテルを貼られると逮捕検挙された。例え無実であっても裏切者や密告者の通報で一旦政治犯として逮捕されると拷問の上自白強要により共産党員と断定され軍事法廷で有罪が確定すると銃殺刑に処され、個人財産は国賊として没収され、残された家族も迫害を受けることを意味していた。このように特務機関の権力は強大で法律を凌ぎ人権を無視したために、多くの悲惨な冤罪事件を生み出した。
白色恐怖で被害者の中で,特に人々を震撼させた米国から妻子を伴い、台湾の実家に里帰りしていた民主派で著名な数学者の陳文成博士は、台湾大学構内に於いて暗殺され死体で発見された。また議員活動を通じて政府批判を展開していた、林義雄議員の家族全員が殺害され,今日に到る迄犯人が見つからず未解決の事件なつている。
私の郷里では、徹底的に行われた清郷工作のために、特務や警察から逃れ裏山に隠れていた人も、密告により通報を受けた当局は軍警を動員して軍用犬を狩り立て絨毯式の大捜索で捕えると銃殺刑に処され、村人二人が犯人隱匿罪で10年刑期の厳刑に処せられた。このように、白色恐怖時代の台湾人は生命の危険と精神的苦痛の日々に晒され耐え難き生活を強いられていた。
一方、国民党政府は大陸情勢の緊迫と戦況不利を見て、戦火を避けるために事前に北京紫禁城「故宮博物院」の60万点以上の国宝級重要文物及び上海中央儲備銀行に保管されていた膨大なる国家財産の金塊、宝石、貴金属、米ドル等を持ち出し、米軍艦に護衛され密かに台湾に運んでいた。しかし、この運び出された金塊等は軍事費に、または海外に移され台湾人民の為に活用されることはなかった。
4月20日、和平に向けた国共会談が決裂すると共産党軍が総攻撃を仕掛けて長江を渡り、4月23日には国民党政府の首都南京を陷落させた。続いて長江流域の漢口、武昌等内陸都市を占領、5月27日には上海が陷落すると上海から避難民の脱出や軍隊の撤退で大混乱となり財閥富豪は財産を持ち出し米国、香港、澳門に亡命した。
国民党政府官吏、軍隊及び難民の約百万人は艦船、飛行機で脱出、台湾に刹到した。台南には元日本海軍航空隊の大きな飛行場があったためにダグラス輸送機が昼夜兼行で、群れを成し轟音をたて慌しく人と物資を運んでいた。
軍隊は校舍教室借用、難民は台南市内の南門城跡、寺廟の庭、空地空間等を不法占拠したために市の美しい景観は破壊され、治安や衛生が悪化した。
時局の悪化と緊迫の中で、七月の卒業を目前に、卒業試験の準備や実習用の教材作製と可愛い児童を相手に、教学実習が始まっていたので毎日忙がしく他のこと考へる余裕はなく只毎日の平穩無事を祈るのみであった。
その頃大陸の戦火は既に大陸中部まで拡大しており、国民党軍は敗北を重ね退却を続けていたが、幸いかな天然の要塞である台湾海峽は戦禍がおよぶのを遮断したために、台湾で平穩無事に学業を終へ卒業式を迎えることが出来たことは幸運であった。別れの前夜は卒業生の皆んなが酒を酌み交わしながら、教職義務を終えた後の、大学進学や校長を目指し、或は政界に高等文官試験を受ける等の希望や抱負を語り合った。私は学寮で隣床の陳君と外交官試験を志望すると誓ひ名残り惜しく門出したが、その後国民党政府の惨敗を見て、二人とも外交官志望を放棄した。陳君は東京の明治大学に留学したが中退して帰国し、その後に実業界で成功した。
私は卒業で故郷の廖議員と父や長老達が、郷里の国民学校に勤務すると早く校長に昇進出来ると期待され強い要望を寄せてくれたが、私は都市部で更に勉強したいと答えた。その後も廖議員からのたび重なる勧めにもかかわらず、その都度お断りしたために、失望させ申し訳ないことをしてしまった。この時の同期生からは後に議員、県長、外交官、中、小学校長、外国留学を経て学者や教育界の高官、大会社の社長等が輩出し各方面で活躍した。
【51】就職訓練と教員への旅立ち
卒業後の1949年8月5日に、米国政府は国民党政府に対し内戦敗退の原因を腐敗無能にあると非難し軍事援助の停止等を提言する中国白書(United States Relations With China)を発表すると、米国政府が国民党政府を見捨てた情勢の変化と厳しい現実の姿に接し、台湾の将来に対し大きな不安を感じていた。
国民党政府が大陸の内戦に敗退し台湾に亡命退却すると、失敗原因に関する検討会が行われると、先ず第一に挙げられたものに、国民党政府が中国の青年学生に対し無関心で、学校を卒業すると同時に失業状態となり生活することも出来なかった、これらの大衆の不平不満を共産党が巧みに利用して国民党に対する反政府運動へと大衆を策動、人民の政府不信と怒りを煽動し、さらに暴動を拡大させ内戦を引き起したために、広大なる大陸全域が共産党の制圧下に入り赤化されたと結論づけた。
この検討会の結論を踏まえ、その轍を二度と踏まないようにと、台湾で最初の中等学校以上の卒業生に対する就職訓練が実施され、同年度に卒業したばかりの全島卒業生を8月初旬に台北に集めた。私達師範卒の同期生は省立台湾師範大学(元台北高等学校)の校舍に寝泊りしながら、台湾省主席陳誠将軍が主任となり一ケ月間の集中訓練が開始された。毎週月曜日の午前7時に挙行される陳誠将軍の精神訓話に間に合わせる為に、朝早くから隊列を組み行進しながら中山堂(元台北市公会堂)まで歩かされた。
毎日の学課は三民主義、共産主義批判、三七五减租、土地改革、耕者有其田等の講義で明け暮れ、勿論これは思想訓練であり毎日感想文を日記に記し輔導官に提出する必要があった。
私は日記に「政府が掲げる三民主義は土地改革、資本節制等の優れた主張があり、共産主義や他の主義を凌駕する優れた主義であると誇示しているが、何故人民に対するこの善良なる施策が貧富の差が著しい大陸で実行出來ず赤化したのか?その原因は何処にあったか?」と大胆に書き述べたら、崔書琴輔導官(米国留学で国際学の専問家)が私を個別に談話室に呼んだ。思想犯で挙げられるかとびくびくしながら行ったら、家庭や生活状況等を調査された後、私に「貴君は思想豊富でうまく意見を述べている。国民党に入党したら大学に行けるチャンスがあるが考へてみないか?」親切な輔導官の言葉であったが、当時国民党に対する恐怖感から未だ抜けきれなかったので、私は「もっと三民主義を勉強してから考えます」と答えた。その時入党した人は大学に推薦入学した。
集中訓練中の8月16日に華南地区の福建省都福州が共産党軍に占領されたとの情報が伝えられると国民党政府の存続と台湾が戦火の危険に晒されるとの危具が一層強くなり色々な流言飛語が流れた。
訓練修了の査閲に、陳誠大将が自ら式典に臨んだ。軍服に乘馬用長靴姿の将軍が最前列にあった私の前で歩みを止めた。背丈は私より低く目が鋭く光っていた。突咄に手を差し出し握手されたのには身震いした。
訓練後、台南市国民学校赴任の辞令書をもらったので、喜び勇んで台南市教育科に手続のために出頭すると教育科の重要役職者は全部外省人(大陸人)で占められていた。担当の顏係官は、私達に勤務校の配分は市内校と郊外校とあり各人の成績によって行い決定すると明言したので、純真な私は公正に行われると信じ、陳君に発表の結果を連絡してくれるようにと頼んで安心すると、さっさと田舍の故郷に帰った。帰郷早々、父に赴任先を問われたので結果を待っていると言ったら、父が「市内校赴任は絶対見込み無しと断言、直ちに台南に帰り発表結果を見て対処しなさい!」と言われた。
結果的には首席で卒業した同級生の高君と8人は交通不便な郊外校に赴任と決められた。父に報告すると社会に出る第一歩から可愛そうにと同情の言葉を貰った。早々に台南に帰り私達数人は教育科に学校成績表を提出して、今回の配分は不公平であると抗議したが、話上手の係官が『君達は良き人才であるために郷に遣わしたのだ!(人才下郷)』と言葉巧みな慰めで私達を諦めさせた。
後日、部外者からの聞き出した真実の証言で、成績とは学校の成績ではなく、紅包(紅い袋に入れた賄賂を贈る)の意味であると言うことを知らされやっと悟った。公平潔白と信じていた教育界が中国式の不正と官吏の人治拝金主義の汚職にまみれた現実に直面して失望の余り愕然となった。しかし、私は気を取り直し、これからの険しい教育の道に一抹の不安と大きな希望を抱きながらも教員としてスタートの第一歩を進めたのである。
【52】熱情に燃ゆる教育の道
1949年9月、台南市政府教育科の辞令に従い、台南市内から砂利道を徒歩で約1時間の道程で平野部にある小学校に赴任した。この小学校は、終戦後、日本人教師全員が送還され教員不足のまま放置されていたに等しい状態にあったために、私達の赴任で学校側と児童生徒の親達はとても喜び大いに歓迎してくれた。私と蘇君(野球部キャップテン)、傅君(後で明治大に留学)は三羽力ラスと言われ日本式の木造建の大きな校長官舎の一室が宿舎としてあてがわれると、畳の部屋で一緒の教員生活が始まった。
田舎の学校と言っても純真で無邪気な可愛い児童達の姿は私の教育に対する熱意を湧き立たせた。戦後の郊外に於ける農村児童は貧しく衣服はつぎはぎだらけのボロ服、弁当の中身は粗末で、女子児童の髮の毛は虱だらけ、教師と教科書不足で学力が低下しており悲惨な状態で大変であった。私は若さと情熱に燃え台湾次世代の児童教育が自分の双肩にかかっていると考え、責任の重大さをつくづく感じ全力を注いで育英に励んだ。
先ず朝礼後の第一課として全校の女子児童に対し、米国援助の殺虫剤DDTの白い粉末を髮の毛に散布、ふろしきを卷きつけて虱退治、その後、全校生徒に米国援助のミルクを飲ませた。教室の机や椅子も壞れかけたものもが多く、修理して児童の需要を充たし喜ばれた。さらに、児童の学力向上を目指し、戦後の電力事情の悪かった停電の夜には、明るい月明を利用し運動場に椅子をならべて課外指導を行なったが、今では若き日の良き思い出となった。
先の同年6月15日に、台湾省政府は異常な高騰を続ける悪性インフレーションを抑えるために台湾銀行券による「新幣制改革」実施令が発表され、旧台湾貨幣4万元に対し新台湾貨幣1元の交換比率でデノミネーションが強行されると、一夜にして台湾人の預金財産は価値を失なった。私達の初任給は新台幣120元で支給され、米、食油等の配給あり、経済破綻による大不況の嵐は庶民の生活をどん底に追い込んていたために、地方公務員である教員の給料は他人から羨やましがられた。この時期に、同期の許君担任の教え子で、台北市教育長を歷任し台北師範学院(旧台北師範学校)の校長に就任した毛連塭氏がいた。
赴任して間もない1949年10月1日、中国共産党主席の毛沢東が北京の天安門楼上で、全世界に向け「中華人民共和国」の建国宣言を行ない世界を驚かせた。特に、台湾の人々のショックは大きく台湾の赤化が懸念され、人々はその恐怖と不安に怯えていた。華北及び華中地域が共産党軍の掌中に入ると蒋介石は国民党軍の敗北を認め密かに台湾を視察して、政府の台湾亡命移転を決定すると遂に成都から專用機で脱出し、12月10日に松山の台北飛行場に到着すると、台北市は中華民国の「臨時首都」となった。さらに、共産党軍の台湾上陸作戦を想定して台湾海峡の海岸線と陸上の各要所には卜―チカや高射砲が設置され防備が增強された。そして、共産党地下工作員の侵透を防ぐ為に戸口検査、入出国制限、中共の宣伝に対処して中共放送の聴取禁止、新聞雜誌の検閲等の厳格な処置が施行されると、人々は戦争の恐怖に包まれ、1949年は戦々恐々の中で幕を閉じた。
1950年9月の新学期に高君は他校の教頭に昇進(同期生で一番早く3年で校長)三羽烏の傅、蘇君の二人も転勤で寂しく一人ぼっちとなったが、新卒の後輩女性教師三人と竹馬の友であった陳君が赴任して来たのでとても嬉かった。陳君は優秀な成績で卒業したがやはり世間知らずで、私と同樣の境遇で同病相憐の仲でもある。その為に、放課後夕日の沈みかける美しい黄昏時を利用して、広々とした田園の畦道を歩きながら、彼はべ一ス私はテナーで二人で懐かしい日本時代の唱歌やメロディーを重唱しながら、お互いを慰め励まし合った。そして彼は英語、私は無線及び電子工学を目差し、単身宿舍で蚊帳を吊り下げて独学で勉強した。陳君は独学で難しい中等学校英文教師検定試験を一回で合格し、台南二中及び專門学校の英文教師になり傑出した優秀教員となった。
【53】教員生活逸話
1950年の教員生活で興味ある二つのエピソ一ドに合った。
校長先生と鍵あけ師匠
新学期に女性教師の林先生が出納係になり、戦前に天皇陛下御真影や教育勅語を収納していた頑丈なロツカーを金庫として利用し、金錢を保管して出納を担当していた。彼女は初めての仕事に緊張したせいか銀行から引き出した現金の全部を鍵と一緒に金庫の中に入れ施錠してしまい、当時生活上で大事な月給を支払うことが出来ず困っていた。唯一の鍵開け師匠が台南市内に居ると聞いて、小使を遣わし呼びに行って連れてきた。報酬として校長先生と彼との掛け引きで、金庫の扉が開けば100元支払うと話がまとまると、すぐに金庫の鍵穴に工具を挿入しカチャカチャと音を鳴らして5分足らずで開扉したので校長先生はびっくりして顏色を失った。校長先生は私を指しながら師匠に「この方は師範学校出身の正式教員で月給120元だけなのに、君は5分間で100元貰うとはあまりにもひど過ぎるよ!」師匠は「100元は事前の約束である、もし厭ならば再び金庫を閉じる」校長はすぐ金庫の扉め前に立ちはだかり両手を広げ厳しい姿で阻止、二人の一歩も讓らぬ興奮した争いと責め立てに師匠が反論して曰く「僕はこの技術を修得するのに小僧から十数年苦労してきたので決して高くはない、教育者たる校長が約束を破り恥知らずだ」、校長も遂に折れ妥協して80元となり、彼はお金を貰うとぶつぶつ不平を垂らしながら、自転車をこぎ帰って行った。社会経験が不足で単純な校長先生は、商売に長けた鋭い師匠に太刀打ちする術がなく困っている場面を、社会に出たばかりの私が始めて眺めた世相の一幕で、現実の厳しさと対応の難しさを知らされ感無量、終生忘れられない貴重な教訓を得た。
捕られ『濫竽充数』の憐れな中国少年兵
舟山列島より撤退した一個中隊が我が校の教室を借りて駐留して来た。台湾に退却してきた国民党軍はもう退くところが無く、台湾を反攻大陸の基地として背水の陣を敷き唯前進あるのみとスローガンを掲げて部隊の再編成と兵隊の教育を行っていた。駐留部隊長の招きで私は台湾語、同級生の王君(後に台南二中音楽教師)は音楽の教官を務め当時流行の新軍歌『保衛大台湾(大台湾を守れ)』を教へて士気を鼓舞していた。兵隊は無学の者が多く音痴で、数字で表現した簡単な音符すらも読めず、歌い出すと変な歌となり、教えるのにひと苦労、それを児童達がまねをして笑った。
思いがけないことに兵隊達は皆休んでいるにもかからず、十数人の若き16、7歳前後の少年兵が、灼熱の太陽下の運動場で、歩き方の基本訓練を行っていたが、一ヶ月以上を経ても左右両手を前後に振る動作が出来ず、班長に大声で怒鳴られ涙を流していた。訓練後、秘かにその訳を聞くと彼等はもともと中国大陸の貧しい百姓で、畑で仕事をしていたところを、国民党軍が手当たり次第に捕へ、軍服を着せられた後、船で台湾に連れて来られたことがわかり、もう父母兄弟に会うことが出来ず嘆き悲しんでいた。
中隊長の大尉に聞いたら『濫竽充数』と答へた。初めて耳にした難しい言葉で、漢和辭典を引くと斉宣王時代のある人が大勢の笛吹きの間に混じって、吹き人の恰好をして俸給を貰った故事にもとづく熟語と解り、大尉の説明では退却時に逃亡脱走兵が多かったので、軍糧と給料の支給は兵士の頭数に基づいて支給されるために、致し方なく手当り次第に若き百姓を捕へて充当しなければならなかったと語り、この物語になるほどと思いながらも驚嘆した。
中国兵には捕えられて来た者が多くと言う、とても信じることが出来なかった噂さ話が、眼前でその真実の姿を見て可哀相で堪らなかった。痛ましい中国文化と国共内戦の犠牲者である、彼ら人間の悲劇は痛恨の極みで今尚脳裏に浮かんでくる。
【54】朝鮮戦争の勃発と台湾情勢
教職に就いた翌年の1950年6月25日、ソ連と中国の軍事支援を得た北朝鮮軍に大軍が怒涛の如く38度線を越境し南朝鮮即ち韓国の首都ソウルに進攻し、台湾でも「朝鮮戦争勃発」と号外で大きく報導されると、また残酷な戦争かと驚き平和を切に願った。同年6月27日には米国政府が「台湾中立化」を宣言、日本の橫須賀と佐世保基地駐留の空母を主力とする機動部隊第七艦隊で台湾海峽の軍事封鎖を行い、中共の台湾進攻を阻止した。国連决議で北朝鮮の軍事行動を侵略行為と断定すると韓国を援助するために米軍が主力となり連合国軍最高司令官にマッカ一サー元帥を任命した。7月31日、マッカーサー元帥は台北の蒋介石を急遽訪問して、国民党政府との共同防衛と台湾の共産化を防止するために「米華軍事協定条約」は締結されると、台湾海峡が米軍の防衛ラインに組み込まれた。蒋介石は米国におべっかを使い台北基隆間にマッカ一サー道路と称するハイウエイを作り記念した。
米国の卜ルーマン大統領とアチソン国務長官は、1950年1月5日及び12日に昨年発表された中国白書を踏まえた「台湾問題不介入」並びに極東防衛ラインの範囲について発表した。この発表により一旦見捨てられた国民党政府は朝鮮戦争の最中に反共声明を出し、米国も台湾の重要な戦略的な位置付けと必要性を考慮して従来の立場を180度一変させ、1951年2月に「米華軍事援助協定」が締結すると、同年4月末に米軍事顧問団が台湾に派遣された。
台南空軍基地には米軍が続々と数多く駐留し、空軍基地からF84ジェット戦闘機の編隊が毎日不気味な轟音を立て飛立って行く姿は、郊外の我校からもはっきりと見えた。そして、顧問団用のアメリ力式庭園付きのデラックスな建物が開元寺近くに米軍住宅20棟が建てられ“TWENTY HOUSE”と称し、人々の目を奪った。(台北地区は天母に)台南市内には米軍専用のPXが設けられ、米兵から珍らしい電気製品、米国製の33回転LPレコード盤等を求め、高品質音のクラシック音楽を鑑賞することが出来た。
中国共産党政権は「援朝抗美(北朝鮮支援して米国に反抗)」のスロ一ガンを掲げて中共軍の大軍が朝鮮戦争に参戦した。激烈なる戦闘が酷寒の中で3年余り続いたが、1953年7月13日、南北休戦協定が板門店で成立した。この戦争で元々国民党軍に徴集され大陸の内戦で共産党軍の捕虜となった兵士が、朝鮮戦争に狩り出されたが、その中には台湾人兵士の多くが戦場で倒れ哀れにも無名の鬼籍となり犧牲を強いられたことは、台湾人に生まれた悲哀の宿命を物語っている。
連合国軍に投降した中共軍兵士14000余人が反共義士として台湾に逃がれ、国民党政府は、その1月23日を『123自由日』に制定した。
国民党政府は自由中国と反共救国を謳いつつ東西冷戦の両陣営の狭間を曖昧模糊と巧みに利用して、一党独裁の国家体制を維持し、国連を脱退(追放)しても民主化が到来するまでの数十年間の長期に渡り政権を維持していた。
【55】台南市内の小学校へ転勤
二年間郊外の小学校で献身的に勤務した評価と教育科との約束で1951年9月1日の新学期から、私が希望する台南市内の小学校に転勤で異動した。台南市の文化遺産「赤崁楼」に隣接している生徒3千余人を擁する大規模な台南市立成功国民学校(戦前の明治公学校)で、同校の校長をしている恩師が私を呼び寄せてくれたものである。この学校は他校に比べて設備環境も良好で、教師の質も揃っており台南の上流家庭、高級官吏、軍部の将官クラス等の裕福な家庭の子女を中心に、素質の良い児童生徒が同校を慕い入学していた。私はこの環境に満足すると同時に責任重大と感じ、子供達が将来社会に貢献出来る立派な良き人になるようにと、全力を注ぎ教育に努め励んだ。幸いにも、私の教え子の中で医学博士、電気工学博士を含む大学教授、政府高等技官、司法官、実業家等で大成し、今でも尋ねてくれる卒業生もあり唯一の慰めとなっている。
当時、国連の教育機構から台湾主要都市の学校に視聴覚教学法を推進するための実験校に、我が校が指名され視聴覚教育用機材として米国RCA製16ミリ映写機、WEBCO製の大型録音機、SILVANIA製のスライド投映機(幻灯機)等が供与された。この管理責任者に電子技術を多少知っている私が選ばれ、台北の省立台湾師範大学(元台北高等学校跡)で技術講習を受け、最新式教学用器材を受領して新教学法に対する改革と理科学教育に力を注いだ。このアメリ力製品は台湾で始めて見る珍らしい貴重なもので、私は管理責任者として保守整備上機械の内部構造の仕組みを観察することが出来たので、技術的な面で大変参考となり、アメリカの科学技術に感嘆し電子技術への道に向け大きな刺激となった。
その頃学校では、日本語は殖民地時代の遺毒として絶対禁止、台湾語も方言として否認され、使用した生徒に対して罰金を課する厳しい処置まで取られていたが、私は言語の排斥については誤りであると主張して極力反対していた。過去戦時中に日本軍部が行なった敵国語である英語排斥の悪例と、正しい先見の目を有し戦争中でも英語必修を奨励実践した、海軍兵学校長で最後の海軍大将井上成美の良き具体例をあげ、外省人教師と激論を交わし反論した。国民党員でない私に、台湾人教師は思想犯で逮捕されると心配や警告されながらも、教育界を離れるまでこの主張を曲げなかった。
【56】二人の出会い
台南市内の成功国民小学校に勤務して間もない頃、授業の合間の休憩時間に知人と一人の素朴で淑やかな娘が教室の外に立っていた。その時は何気なく紹介されたが、一言も言葉を交わさずに、お互い眼を見つめ合い微笑を浮かべただけで、私は次の授業のために教室に戻り、彼女はそのまま去って行った。田舎のハンサムボーイと美人で可愛い都会娘の出会いはお互いに一目惚れしたらしく、その後、数回の出会いで恋心が生じ二人は親密度を急速に増して行った。一度火がついた恋愛感情の炎は徐々に燃やしながらお互いの愛を育んでいると、恩師の校長先生から婚約の話が持ち出された。
当時、台南市内では「田舎の金持ちに嫁ぐよりは市内の乞食の方がマシ」と田舎者を馬鹿にして軽蔑する諺や言伝えがあり、気骨ある田舎出身の我々は市内娘との交わりを敬遠し避けていた。しかし、恋仲の二人を隔てるものは何ひとつなく、一年後の1952年の秋に台南市内のキリスト長老教会で結婚式を挙げ多くの人々から温かい祝福を受けた。彼女は20歳で、23歳の私より3歳年下である。戦前の日本教育を受けた彼女は完璧な日本語と日本的な価値観を有していたために、私にとっては申し分のない伴侶であった。
台南市内での結婚披露の祝宴を終えると、郷里での村人や親戚縁者を集めて祝宴を挙げるために急ぎ里帰りした。台湾の田舎では新郎新婦が駕籠に乗って実家に戻る習慣があり、初めて乗る駕籠は物珍しく面白かったが、しかし田舎道はデコボコの悪路で駕籠が大きく揺れる度ごとに、担がれ座る人も担ぐ人も決して楽なことではなかった。
大汗を掻きながら担ぐ人達に同情して駕籠から降りて、二人で語らい、歩いた大自然の山道での思い出はまた格別のものであった。
台南市内で新生活に入った私達夫婦は、その後に二女一男にも恵まれ健康で楽しい家庭を築き上げることが出来た。その間、私は平穏な教育界を飛び出して荒れ狂う実業界に身を投じ、台湾を離れて日本に渡航した。帰国後も台北や高雄に滞在して仕事に追われて、忙しく内外を飛び回っていたために、ほとんど家庭を顧みる暇がなく留守が多かったが、幸いにも妻は日本教育で培った精神力で勤勉倹約に努め裁縫、料理等の家事に長けて良妻賢母を発揮してくれた。私が憂いなく事業やビジネスに専念出来たことは、妻の努力と内助の功の御陰であり感謝の念に堪えない。
子供達も大学教育を台湾で終えると、娘二人は日本に留学し国立神戸大学の大学院を卒業し、息子は米国に留学した。外国で育った孫達もUCLA バークレイ校、オーストラリアのメルボルン大学に進学した。
【57】技術修得の鬥志と日本友人との交流
新しく台南市内の小学校に転勤赴任すると郊外の田舎生活とは異なり幅広く各方面の人々と接触するチャンスが多くなり、私を取り巻く生活環境は大きく変化し外部からの情報量が飛躍的に増えた。その他海外関係の情報が早く入手出来るので、新しい技術や知識を吸収する環境に恵まれることになった。1951年9月8日、サンフランシスコで対日講話条約が締結された。この講和条約の締結により日本は台湾の領有権の放棄を承認したが、台湾の帰属先については一切抵触していない。したがって台湾の帰属問題は今尚未解決であると言える。
1952年4月20日、「日華和平条約」が台北で締結された。その直後に教え子の父親で中央標準局長(ドイツ留学、特許庁長官)が団長として日本工業を視察し、帰国後に教室を訪れ日本訪問の感想を述べた。戦後日本は戦時中の工業力を駆使して復興、朝鮮戦争では日本の技術力が高く評価され、米軍軍需品の生産基地として技術指導を受けかつ欧米の新しい生産技術を取り入れて目覚しい発展を続けていると語った。その話を聞いて、戦時中に横須賀海軍航空技術廠で触れた科学の真髄を思い起こし心が動かされ、再度日本に渡航し技術習得の道に闘志を蘇らせることに熱い思いを巡らせた。
日台国交の回復で、日本国内で刊行されている日本文の雑誌「無線電」や電子技術、NHKのラジオ教科書等の科学書籍(政治関係は輸入禁止)は台湾の専門書店で購入することが出来たので、早速買い求めて独学ではあるが水を得た魚のように生き返り一心不乱に勉強した。一方、ある無線雜誌で仙台の短波クラブを知り入会(台湾人では初めて)した。私はガリ版刷でカラーのSWLカード(短波の受信証)を発行して世界各地のリスナーから喜ばれていた。その中でアマチュア無線の愛好家で松下電器のアイロン事業部に勤務し、後に中東イランナシヨナルの社長に就任した矢井俊雄氏と知り合になり、戦後日本で欠乏していた砂糖を台湾から送ると喜ばれ、彼は私の欲しい電気や電子関係の書籍や工具を送ってくれた。そして、1963年に大阪で会い日台交流の良き友となり交際が長く続いた。
【58】中短波受信機試作成功の喜び
当時、軍事戒厳令下の台湾では政府の言論統制で新聞や雑誌は検閲され、台湾人は真実の海外ニユースに飢えていたので、人々は日本のNHK国際放送、英国のBBC、アメリカのVOA等の日本語放送が受信出来る中短波ラジオ受信機を求め望んでいた。しかし、終戦当時に日本人が残した再生式の国民型ラジオは感度が悪く短波放送の受信には役に立たず、国民党政府は中共放送の聴収を厳禁するために真空管を含む無線電器材は、警備総司令部の管制物資として厳しい取締の対象としており入手は不可能に近く至難であった。
このような状況の中で、朝鮮戦争で米軍が廃棄した通信機の残骸が沖縄の米軍基地からスクラップとして台南近くの屑鉄屋に入るので、潰されていない使用可能なGT真空管、コンデンサー、抵抗器、ソケット、コイル等を探しかき集めて、規格外の物を改造して、アルミ板に製図加工し板金で折リ曲げシャーシを作り、真空管挿着のソケット穴をハンドドリルで開け組立てて実験した。
この組立ての過程で数々の技術的問題に遭遇することになった。例えば設計回路と製作上で発生する交流ハムや調整不良による受信感度の低下等を、その都度解決する必要があるが教えてくれる人もなく、ただ日本語の参考書を頼りにあさり四苦八苦の末に、やっとスーパヘテロダイン式の中短波受信機を製作することに成功した。アンテナ線を張りNHKやBBCの日本語放送が受信出来、殊に周波数ダイヤルを廻して日本からの電波を捉え、日本語のニュースアナウンスや聴きなれた日本の音楽が聴えた時の喜びは、例えようもなく嬉しく、懐かしく今でも忘れられない。
その後、電子部品が輸入されるようになると品質の良いパ一ツを選択し技術雑誌に掲載されている舶來品受信機の最新回路方式を取り入れ、他人より感度と音質に優れた高品質のHiFiステレオ電蓄付ラジオを製作すると、私の技術が教員間で大評判となり注文が殺到した。夜は我が家の狭い工作室で夜遅くまで半田コテを片手に内職を兼ねて働き生活費の足しにした。その内に舶来品フィリップス製の高級ラジオ受信機等の修理も持ち込まれ、修理して返すと大変喜ばれ、さらに別の人を紹介してくれるので、儲けも大きく嬉し涙の毎日であった。
【59】台湾電子工業発達の歩み
1952年4月、「日華平和条約」が締結され日台の国交が結ばれると両国の貿易量が増大し日本製品はもとより米国、ヨーロッパ製品等の電子製品及び関連パーツの輸入制限が解禁されると政府は『特別許可輸入商』制度を設けて日本、米国、欧州の有名ブランドである日本のナショナル、シャープ、米国のRCA、オランダのフィリップス、ドイツのテレフンケン等の高級ラジオや電蓄等の電気製品が輸入された。しかし、外国製のラジオ受信機は輸入関税が高く庶民には高嶺の花で、一般には安価で実用性の高い台湾製品の方がよく売れたので、アマチュアのラジオ製作者はそのチャンスをつかみ、私製のラジオ製作者は雨後の竹の子のように生まれ、庶民に支持され大いに売れた。
一方、電子部品を輸入する貿易商社は電子やラジオ技術については門外漢で未熟なれども、その代り商売に関する頭脳や才能は明晰で、技術の解るアマチュアの私達を重宝して有効に利用した。例えばどんなブランドのパーツがどんな回路によく使われるかを詳細に調査して英国のフィリップス、アメリカのRCAやGE、日本のNEC、東芝、日立ブランドのオーディオ用真空管6V6-GT、6L6-GC、6CA7。スピーカは英国のグッドマン、日本のパイオニア。電蓄用モータは英国のガラード、ドイツ製デュアル等であると教えると、これら高利潤のある製品を部品として輸入して利益を膨らました。
また、商売人である彼らは「特別許可証」を受けると、見返りにアマチュア製作者が必要としている管制物資である真空管等の使用証明書を取得し融通してくれたために、これらを利用して儲けることが出来た。そして会社を設立し事業として利益を得た人達は、日本の有名電気機器メーカと組み松下電器、三洋、ソニー等との技術提携を行い、合弁会社を設立し台湾で現地組立や製造に乗り出し、成功を収め大きな利益を得て大会社へと発展した。
その後、台湾に於ける周辺産業が発達しさらに生産技術の進歩に伴い、プレスによる組立用のシャーシも精巧に成型、キャビネットも美しく仕上げた優良な製品が生産され供給出来るようになった。また、比較的高度な技術を要するコンデンサー、抵抗器、特殊コイル等の製造技術を有する中小の工場も日本の企業と技術提携を行い、日本から新技術や品質管理の手法を学び部品の国産化と現地調達に貢献した。また、独自の技術で新しい部品を開発し試作品が完成すると、先ず私達のような組立者に依賴して、日本語の技術文献や資料の翻訳や試用を依頼した。これらの報告をもとにデータを分析し、改善改良した結果を自社製品に反映することも暫し行われていた。
このような背景の裏面には、日本教育を受けた技術者や日本語を完璧に解する人達が日本人的な価値観や思考で、日本の科学技術を学びながら日本の企業マンと取引が出来た。肝心な技術情報のキヤッチや技術文献や資料の読み書きも、私達の世代は日本文にも精通しており、日本との友好関係に喜びを感じながら戦後台湾の発展に大きく寄与したことは事実で、日本教育の見えざる惠みであった。
【60】応召、空軍に入隊
国民党一党独裁の戒厳令下の中『反攻大陸』の号令一下、台湾人の兵士を確保する為に、1957年の議会で、私達1930年生れの兵役問題について激しい論争が続けられている夏休みの最中に、突然、軍隊の召集令状が届いた。8月10日に高雄県の岡山空軍訓練基地に入隊せよとの通知で、私は既に兵役適齢を過ぎた27才になっていたので驚嘆した。私の抽籤番号は15番なのに、何故最初に行かなければならないか?と兵役係に問い合わせたら、空軍側の要求で体格が甲上、身長168センチメートル以上、学歷が高級中学卒(高等学校)以上、この条件を満たす者は台南市中区で私を含めて二人しかいないと言われ、どうすることも出来なかった。学校の教務を片付けて同僚友人達の壮行会を受けて入隊した。軍当局は私達を召集するために若い適齢者と組合せて300人が応召され入隊した。
入隊先は元日本海軍岡山第61航空廠(台湾少年工達が集められ海軍軍属として基本動作が訓練された場所)の跡地にある空軍通信電子学校で一ヶ月間の基礎訓練を終へると、兵種(科)の振り分け試験が行われ数学の得点順位により20名が電子組、40名は通信組、50名は機械組(空軍機械学校)其の他の者は空軍基地の現場勤務に配属された。
私は選抜され電子学校で航空用電子裝備の整備技術課程を受けることになり、米空軍用の教材と実験設備でアメリカ帰りの教官から毎日8時間集中的にエレクトロニクスの学科を系統的に学び、基礎電子工学からレーダ工学まで8ケ月間勉強させられた。幸いにも私は入隊前から独学とラジオ組立等の経験があったので、他人よりも早く吸收することが出来た。学校側から本科に入れば米国留学のチャンスが有ると勧誘されたが乗じなかった。教課程を卒業すると私は米国援助で装備されているあらゆる陸空用レ-ダ-を含む電子装置のオ-バ-ホ-ル行う唯一空軍電子廠の航空用レ-ダ一組に配属された。そこでは最新を誇る設備と精密測定器が配備され、米国の軍事顧問と民間技師が駐在して技術的サポ-卜をしていたので、色々な電子装置に触れることができ見識を広めるのに役立った。
空軍基地の技術下士官以上は毎日下宿先から專用バスで通勤できたが、家庭の事情で近くの台南空軍基地に転勤を申請した。台南航空隊は模範連隊で台湾で最初にアメリカより新型ジエット戦闘機F86が供与されており、我が分隊には米国人軍事顧問が駐在していた。空軍機には最新式のUHF無線機、IFF(敵味方識別装置)、ナビゲーター用のラジオコンパス、サ-チレ-ダ一等が裝備されており、私は飛行隊長用戦闘機の点検整備の責を任され、他人が発見出来なかった故障を修理して褒賞を貰った。
中国空軍は創設当初から中学や大学出身の人材を採用し、空軍学校を卒業してほとんどがアメリカ、カナダで訓練を受けているので素質が高く、月給も陸軍の2倍で、彼等と共に勤務をしていたために空軍生活は快適で、先端技術を吸收して技能を発揮することが出来たことに感謝した。
入隊一年後の1958年8月23日、中共軍が金門島に向け毎日数万発の砲弾を撃ち込み「金門大砲戦」が開始された。中共の砲擊で台湾全島も緊迫しアメリカから台湾に対し最新兵器である対空戦誘導ミサイルガラガラ蛇、大型輸送機C119、榴弾巨砲の重火器が緊急に援助された。最初にガラガラ蛇ミサイルを裝備したのは我が連隊のF86戦闘機で、ソ連製のMIG戦闘機の数機を撃墜して中共空軍を恐怖に陥れた。一期遅れで陸軍に応召された同年輩の兵士は金門島の砲撃戦で不幸にも数多くが戦死した。その間に論争中であったの同年輩の兵役問題は、未応召者は兵役免除、陸軍は1年で退役、空軍は当初の3年から半年切り上げで、私は1960年1月末日に除隊した。
【61】人生の荒波怒濤に遭遇
1960年2月、私は教職に復帰したが前途の明るい希望とは裏腹に、不覚にも除隊直後の金銭の貸倒れトラブルと大病の二大事態に遭遇して生きる力をなくし人間喪失の瀬戸際に追い詰められた。
先ず、貸倒れの件は除隊前の年の暮、師範の同期生で仲の良かった陳君はラジオ店を経営していたが、年末の12月31日に二度目の債務不渡りを出して、助けを求めに突然我が家に尋ねて来たことに始まる。友情に脆く、数日中に絶対返すとの口約束を堅く信じた私は、アルバイト等で貯めた全額の一万元を貸し与えて助けた。はからずも期限が過ぎて幾度も催促したが返して貰えず、かつ多くの債権者が現れ、倒産騒ぎに乗じてさらに偽者の債権者までが現われ、負債金額が数倍に膨れ上がった。結果的にはどうにもならず、私には中古の日立製の電気ドリルを2500元の該当返済金として、受取り悔し涙にくれる以外に方法はなく、精神的な打擊は限界を超えて欝状態となり途方に暮れていた。
父は私の苦難を知ると「失った一万元は大学に入って法律を習ったと思い、ゼロからやり直せ」と励ましてくれたが、私には昼夜を問わず苦労惨憺して、倹約しながら積み上げた貯蓄が無情にも、助けた親友に騙され一文無しになったことは、いくら考へても悔しくて堪らなく割切れず立ち直るために、夜は内職に精を出し真夜中まで働き続けたが、一旦失った金銭は少額の千元と言えども当時の状況では貯金することは容易なことではなかった。失意と悔しさのために夜は天井を眺め自分の無知を自責し、眠れぬ夜が続き医者の睡眠剤も効き目なく、遂にひどい不眠症に惱まされ身体は衰弱し痩せ衰えていった。
同年の三月に、台南市民族舞踊コンテス卜に参加した我が成功国民学校が優勝した。台湾全土の優秀校が一堂に集い台北総統府近くの三軍球場での決勝大会に出場するために、その準備として毎日テ-プレコ-ダ-に吹き込んだ音樂で猛練習を行っていたが、運悪く録音機が故障した。管理責任者の私は徹夜で緊急修理をしなければならなかった。台北での決勝大会の日まで続いた猛練習に疲れ、視覚聴器具の操作と点検保守に加えて夜の内職のために疲労困憊で奔走していた。既に重い不眠症を患っていた私は、事実上疲れ果てていたが無理を承知で任務遂行まで頑張り通した。
しかし、決勝大会が終りホツ卜一息して、台北から台南に帰ると胸部あたりがチクチクと痛み出し医者に診察して貰ったところ肋間神経痛と診断(誤診)されたが、自分では大したことではないと思いながら登山に出かけた。山から下山して帰宅すると、寝ていても身動きひとつ出来ないほどの激痛に見舞われ、慌てて医院に駆けつけたら、医師が二本の手指で肋骨附近をポンと一発打っただけで反応し、すぐに肋膜炎と診断され無様にも病床に伏した。幸い当時貴重な新薬テラマイシンを二十数本打つと薬の効き目と、妻の不眠不休の温い看病、親戚や親友のお見舞いと励まし、新鮮な卵等栄養品の差入れで数ヶ月の療養休暇を経てやっと元の健康状態に回復し、幸いにも一命を取りとめることが出来た。
このように、1960年は私にとっては災難の厄年で、人生の荒波に遭遇し苦痛の中にも生きる強き意志と、強靭なる精神力で乗り越えたことは感謝感激の至りである。この二大試練はその後の人生に大きな弾みと一大教訓を与へてくれた。即ち金錢問題については如何なる親密な間柄であっても慎重を要することで、また健康は人生の絶対条件である。
【62】教師生活を名残り惜しく去る
1961年初退院後、何とか元気を取り戻し学校勤務に復帰すると同時に辞表を提出した。恩師である校長先生は驚き、すぐ私を校長室に呼び一体何事か質問された。私は教職を辞めて日本へ行くといったら「君既に三十を越し子供三人あり、今更家庭を拾てて日本へ行くとは許し難い」とすぐ却下された。癢養中によくよく考えた挙句、今万難を排し決断して日本に渡り知識や技術を充実しなければもう二度とチヤンスが無いとつくづく思ったのである。再び辞表を提出すると校長先生は堅い表情で「恩師の立場で卒直に説得する、君の考えは非常に間違っており家庭をを捨ててまで冒險をおかして日本へ行くとは如何に考へても理解出きない。この良き学校は他校の教員や師範生に羡ましがれ、奉職したいと望んでいる人が数多くあり、同僚の先生達も補習や塾に励みお金を貯めておる、こんなに安定した良き職業はまたとないもので、君があべこべに離れて行くとは頭が狂っているのではないか? 師弟の立場として同意し難いのでもう一度慎重に考へなほしこい!」さすが恩師の厚き温い思いやりに感謝感激で涙が流れた。しかし三度目の辞表提出には校長先生も私の剛情に諦らめたらしく「よしわかった!」厳粛な一言でとうとう捺印してくれたが、私は万感胸に迫る切ない思いで辛かった。
私が突然学校を辞職して日本に行くと知った同僚や教へ子の親逹が疑問を抱き吾が家を訪れ真
実を確かめに来る人達もあった。皆の共通点は私がこの名門校を辞めて行くのをとても勿体ないで、子供達にも惜しいと言っていた。台湾人の先生達は私に「君は馬鹿正直だ!今未だ日本精神が抜けきれず、恵まれたクラスの担任も惜しまずに離れ去って行く気持ちは到底理解出来ない?変な男だ!」と散々云々され色々ときつい話しも多く聞かされた。
私が教員生活の間に良かったことと言えば、教師10年目に政府より優良教師の賞状を授与されたことである。そして最も記念すべきことは、台湾を離れる間際の全学年学力試験で、長女が第一位を獲得したことであり、そして長女はその後に国立神戸大学の大学院に留学した。
学校側は大飯店で送別の宴を開き、皆の励ましを受け名残りを惜しみながら学校に別れを告げ、長年の教師生活に終止符を打った。
【63】学びに志を立て再度日本に渡航
1963年、厳しい戒厳令下の台湾では一般人の出国は極めて難しく容易な事ではなかった。私は初心貫徹の志に燃え闘魂をみなぎらせながら、明日への希望を抱き目的達成を信じて止まない決心で、日本行きの計画に挑戦し渡航準備を整えた。同年2月中旬、愛しく恋しい妻と可愛い我が子と別れて、台北松山国際空港からCAT航空の四発プロペラ機で日本に向け一路飛び立った。幸運にも出国を果たしたことは、私の人生にとって正に人生の分水嶺であり天下分け目の戦いであった。
途中米軍占領下の沖縄那霸空港で小休止、空港内の免税店でスコッチウイスキーを三本買えば、入国規定により免税で日本に持ち込むことが可能で、それを東京で売れば片道の旅費を浮かすことが出来ると教へられていた。ホワイトホース(WHITEHORSE)三本を買い込み日本に着くと果してすぐ買い取りの人があり、滞在生活費の足しになり大いに助かった。羽田空港に到着し機外に降りて見上げた青い空と新鮮な空気は、日本到着の実感が沸き懐かしくて堪らなかった。
【64】経済成長期の日本と三種の神器
羽田空港から中央区日本橋の旅館に行く途中、終戦により復員で日本を離れてから17年目ぶりに見る東京は、1964年の東京オリンピック開催を翌年に控え、空襲の焼け跡にも続々と高層新築ビルが建設され、主要道路の拡張整備、地下鉄の延長工事、羽田空港と都心を結ぶモノレ-ルや首都高速道路網の建設を含め大規模な建設工事が慌しく行われており、大きく変貌しつつあった。また、1964年の開通に合わせ東京大阪間を4時間弱で結ぶ東海道新幹線の鉄道工事が急ピッチで進められていた。
しかし、日本橋通りや馬喰町には未だ都電の路面電車が走っており、日本橋附近には焼芋を売っている小父さんの姿が見えた。新宿駅の伊勢丹デパ一卜側の焼け跡には俄か造りのバラツクが立ちならび、立看板には「ふる里の味ビ-ルで一杯」と描かれ、小屋の中に入ると豚のレバー串焼きと組合せた料理が安く食べることが出来た。しかし、日本の物価は台湾に較べて高く、例えば台湾では50銭も出せばかき氷が大鍋にいっぱい、子供二人と一緒に美味しく食べられたが、雪印のアイスクリ一ムは台湾のお金で2元にも相当し、高くて手が出せなかった。
当時の日本は外貨獲得のために輸出奨励政策が行われ、外国為替管理法が敷かれていたために。輸入品の外国洋酒、煙草、時計等は非常に高価で、台湾での買値の倍以上しており、私が電車内の吊り輪に手を持ち上げると腕に付けていた外国製の腕時計RADOを乗客が好奇な目を寄せていた。その代り日本国産品を外国人には免税店でノータックスの優遇で買うことが出来、カメラ好きの私はニコンの高級力メラを安く購入した。また、パスポ一卜を提示すると、当時有名な卸問屋「海渡」で台湾には未だなかったデザインに優れ奇麗な衣服や珍しい雑貨類をお土産品として安価に買うことが出来るので喜んだ。
1963年(昭和38年)当時の日本は政府(池田勇人内閣)の掲げる所得倍増計画を背景に高度経済成長期に入り、国民所得が向上して街中には国産乗用車が溢れ、テレビ、冷藏庫、洗濯機が三種の神器と称され、消費物資も豊富で日本国民の日常生活に大きな変化をもたらしていた。
特に、私の目を引きつけたのは、屋上や屋根に林立するテレビアンテナと一所帯一台、白黑テレビの普及は連続テレビドラマや華やかな芸能人気番組の登場により高い視聴率を上げて、テレビ全盛時代を迎えており、既にカラ-テレビの実験放送が開始されていたことであった。
私は台湾にもやがてテレビブ-ムが到来すると確信し予測していた。国を出る頃の台湾では白黑テレビの放送がまさに開始されたばかりの時期で、台湾初のテレビ局(台湾電視台)の建設にはNHKの技術局が指導に当たり、番組制作や運営には民放のフジテレビが担当し進められていた。
【65】東京発動機と富士電機松本工場で実習
日本への渡航で鋭意協力してくれた台南師範学校の同級生で、華成貿易会社社長の蘇君が数日遅れで来日、同じ日本橋の植田旅館に投宿した。彼は将来台湾でオ-トバイが流行すると予測し、私を同行して取引先の大手町ビルにある丸紅飯田株式会社(現在の丸紅)を訪問して、島尾部長に面会し軽機械課で東発の50CCエンジン800個を発注した。また、彼が代理店をしている東京駅前八重州口の帝国ピス卜ンリング株式会社を訪れ、長野県の岡谷工場を見学して東京に帰ると、東発株式会社の招待で箱根芦ノ湖に遊び船外機テス卜用のモ-タボ-トで湖面を一周した。
丸紅飯田の情報で穗高が在庫しているバイクのエンジンが山口オ-トバイの倒産により、大幅に価格がダンピングしていると聞き、急ぎ名古屋に直行した。穗高の社長と商談して山口の50CCバイクエンジン2000個の発注を取り決めた。何れも部品扱いのノックダウン方式で輸入しなければならないので、組立技術を習得するためにメ-カ-二社に台湾から人員を派遣し実習させる必要があった。
事実、私も日本に来て物価と生活費、学費の高額なことに困り大学に進むか、あるいは新しい技術を学んで早く帰国するかを、経費の問題を考慮して進路の選択に悩んでいたので、蘇君に心情を洩らすと、彼は私に「もし帰国後に我が社に入るならば、丸紅飯田に依頼斡旋して東発に宿舍提供付きでオ-トバイ製造技術の工場実習が出来るよう考へて見ないか?」と言われ、彼の温い配慮と友情に感動し、これに勝る好条件は無いので即座に「OK」と答えた。
東発(ト一ハツ)はかって日本二輪車業界のトップクラスの会社で企業規模、設備も良好で、技術力も高く、オ-トバイRUNPET、小型ボートの船外機の製造でも有名であったが、後発メ-カ-の本田技研工業の新製品と技術力の差に対抗出来ず、経営不振に陥り株価が下り、富士電機から品田工場長、水田総務部長(東大出身)等幹部が派遣され経営再建の最中であった。
私は水田部長の世話で庭園のある東発の研修寮の工場長室隣の一室を割り当てられ、朝8時から午後5時の定時まで工員と共に板橋区の志村坂上工場の生産ラインに入り、エンジンと車体組立、さらに志村坂下の工場で完成車の検査実習を行なっていた。その時に知合った熊谷氏は後に東京電波株式会社の社長となり、今でも長いお付き合いをしている。
そして、夏休みを利用した一ケ月間は長野県
の富士電機松本工場で生産ラインの中に入り、電装関係部品の組立実習を水田部長に取り計らっていただいた。松本市は戦災がなく駅も昔の姿で市内には路面電車(チンチン電車)が走り平和でのどかな街であった。戦後、松本工場に実習に来た外国人は私が二人目であった。私は一人目のインド人とは異なり完璧な日本語と偏食無し(インド人は宗教上の都合で野菜や鳥肉以外は食しない)で喜ばれ、富士電機の人達と親しい仲となった。その中でも信州大学を卒業した若い草間氏と知合い、彼は後に工場長となり香港富士電機の社長を務めた人で今も交際している。
宿舍は浅間温泉鷹ノ湯の立派な富士電機招待所で、毎朝電車で松本駅まで出ると車が迎えに来て工場まで送ってくれた。後に事業本部長を努めた山崎工場長にも大事にされ、休日には社員を遣し美ケ原高原、松本城等の名所旧跡を案内していただいた。
ある日、昼食に招かれ戦後に於ける日本工業の発展飛躍は欧米の「IE」(Industory Engineering)の手法を取り入れた結果で、日本でしっかりIEに関する勉強して帰りなさいと励まされ、最新の「工場管理」に関する知識を高めることが出来た。ちょうどこの時期に、松本工場ではIE手法を活用して電裝品のコス卜ダウンを手掛けていたので、担当の係長から色々なことを教えられ非常に役に立った。
帰国後台湾で始めて創立された台湾生産力中心(台湾生産性本部)初代の理事長でドイツ留学の傅先生にIEの話をしたら何処で習ったのかと質問を受け、相手をびっくりさせた。
【66】東京電子専門学校の編入試験と苦学
1963年3月、日本で大学進学も考へていた私は断念し、独り新技術の道を歩むことを決心した。東発の研修寮に入りとりあえず落ち着くと、土曜日の午後の休暇を利用して池袋の「東京電子専門学校」(東池袋三丁目、現在のサンシャインビル附近)に足を運んだ。係員に編入試験を申し込むと教務主任が出て来たので、私は来意を告げ、台湾の卒業書を提出したら「台湾の証書は認めない、当校は技術重点主義の専門学校で評判も高い、今迄編入生を認めたことがないので受付けない」と、素気なく拒絶されてしまった。私は「貴校を慕って遥遥台湾からやって来たので、パスポ-卜の滯留期間も一年間のみであるために、是非何とかしていただけないか?お願いします」と強く頼むと、教務主任は奥に入って相談し出て来た「よし!もし貴君に実力があるのなら試験をして見よう!もし合格したら幸運だが、不合格だったら悪く思わないで帰ってくれ」と厳しい態度であった。
私は咄嗟に「日本語の試験ですか?」と尋ねたら「冗談じやない、技術科目の試験だ」早速、事務員に鉛筆、消しゴム、小刀とコピ-の試験問題を用意させると教室へ連れて行った。渡されたのは無線電数学、電磁気学、基本回路、故障修理、映像回路等の試験問題用紙5枚で、今1時半で4時半に答案を取りに来るからと言って扉を閉めた。
試験問題を見ると予て独学と空軍電子学校で電子工学を修得していたので難なく解答できたが、テレビの映像回路は満足な解答は出来なかった(習ったことがない)。4時半の定刻どおりに教務主任が答案用紙を取りにきた。すぐ採点が始まり、神妙に待機していた私に先生が「平圴点79点、貴君は良く出来るナア!、しかし殘念ながらテレビの映像回路が出来ていない、もし出来ていれば80点は突破しているはずだ!、「台湾の教育レべルは思ったより高い」と褒められ、「よし第一本科(昼間)に入学を許可する」と言われてとても嬉しかった。しかし、私は東発で昼間実習を行っていたために、夜間の第二本科に替えて貰った。
毎日午後4時50分に工場実習が終ると、志村坂上から電車で池袋まで行き午後6時の授業に間に合わせた。学科は2時間連続で、午後8時の15分休憩を利用して地下の販売部で牛乳一本とパン一つで夕食をすませた。学科の内容は空軍電子学校の方がアメリ力教材で程度が高く、修得部分も数多くあったので、各段落のテス卜には追試することなく順調にパスした。
航空用電子装置の整備で精密オシロスコ-プと測定器使用の使用経験を有する私には学校の実習も無難にこなし、オシロによる波形観察レポ-卜も他の学生を凌ぎ、優秀な成績で先生の高い評価を得た。各段階のテストには追試験を受けることなく順調に推移して行ったが、私の切実なる願いは台湾に未だなかったテレビ技術を習得して、早く帰国することであり、そのためには、土曜日午後の休暇を利用し、学校の実習室にこもりテレビ回路の実験に專念した。また、高度な経験を生かしたテレビ受像機の組立実習では、誰よりも一番早く最初にブラウン管に画像を映し出し、同級生をアット驚かせた。在学中にNHKの見学と力ラ-テレビの撮影放送の現場を授業参観し、近い将来に力ラ-テレビ時代到來の必然性を確信した。その後、卒業試験にも容易に合格して念願の卒業証書が授与されたのは、1963年10月であった。
また、東発寮のテレビが故障して、全国各地から研修で宿っている人達がガッカリしているところ、私が手際よくテスタ一で故障個所を発見す
ると秋葉原でパ-ツを買って来てテレビを直したので、研修生が台湾人と知りその技に舌打ちしてとても喜んでくれた。
ある日下校時間が遅れ、最終電車の終点が板橋止りで、志村坂上迄のバスもなくタクシ-に乗る現金にも余裕がなかったので、歩いて寮に帰り着いたのは夜中の午前1時過ぎで、寮母の吉田さんが大変心配して、客間で私の帰りを夜遅くまで待っていてくれた。その時は、やさしく親切で人情味に溢れた、寮母さんの温い気持ちに感動し今でも忘れられない。
普段は、毎晩最終バスで寮にたどり着くのは午後11時半頃で入浴後に予復習を終えるのは夜中の12時を過ぎていた。初め東発の課長が、私が毎晩夜遅くまで池袋のバ-で遊んでいるではないかと疑われたが、学校に通っていると知り感心していた。このように苦学の道は険しくも、また楽しくもあり、私の人生に大きな試練を与へてくれた。
【67】日本友人と奇縁な顏合せ
1963年10月、東京での工場実習と学校が修了すると、蘇社長からの電話で名古屋に行き、穗高のエンジン組立実習と組立用治具を整備して、持ち帰るよう指示されたので、丸紅飯田名古屋支店の千草寮に宿泊しながら実習で笠寺の穗高工場に通った。
このような時に、松下電器産業に勤務し短波クラブで戦後の23歳頃から手紙や写真の交換を通して長く交流していた、ぺンフレンドの矢井俊雄氏からの電話で、名古屋と大阪は近いので是非来るようにと誘われたので、大阪駅まで出かけると矢井氏は親子二人で出迎えて下さった。これで初対面の顏合せが現実のものとなりお互い手を握り合い共に喜んだ。矢井氏は温厚篤実な方で、当時日本でも珍しかった高級な鉄板焼店に招待され神戸牛のステ-キをご馳走になった。私もスイス製の記念品を渡すととても喜んでいただいた。お互いの絆はさらに強く結ばれ、其の後年々日本に来ると大阪で必ず再会を果たした。彼の関係でナショナルの炊飯器工場、アイロン工場、高槻のテレビ工場を見学することが出来、生産ラインの合理化と自動化で能率を上げているのを見て、視界を広め台湾に帰るとその後の工場経営に非常に役に立った。
彼は松下電器産業が自から養成した幹部社員で、アイロン事業部でスチ-ムアイロンの技術開発から、後に革命間際にあった中東のイランに派遣され、イランナショナルを創立し社長になった方で、アマチュア無線家でもあり世界各地の無線愛好家と交信していた。特に、私とは国境を越えた固い友情で結ばれた朋友となり50余年もつき合い、台湾と大阪の本社で度々会い共に会食を通じて日台の交流と親善を深めた。
その間、彼は私が短波放送と写真撮影が好きであると知り、松下電器の新製品である特製短波受信機やビデオカメラを贈っていただき、今では貴重な記念品となっている。私より歳が若かった彼は、殘念にも一咋年癌で亡くなり、良き日本の友人を失い痛烈な心の痛みを感じた。
【68】台湾のオートバイ工業と日台貿易の発展
1964年12月、日本から帰台すると約束とおり、蘇君の経営する会社でオ-トバイ生産を行っている「東星工業股份有限公司」と、輸出入業務を取り扱っていた貿易部門の「華成貿易公司」に入社した。東発のオ-トバイ技能検定でエンジニアの認証を得ていた私は工場に入ると、新進若手工員の数名を集めて日本で習得した方法で、エンジン組立の指導に取りかかったが、今まで一人で一台一台を組み上げていた徒弟上りの師匠が、「門外漢の素人を呼んでオ-トバイの組立が出来るものか?無謀だ!」と嘲り笑い、大反発を受けたがマニュアル化した作業標準に基づき冶具、特殊工具、測定器等をフルに使用して、頑固一徹で押し通し、新しい方法で組立て見事に完成品に仕上げると、皆から不思議に思われ驚かした。其の後次第に従順に言うことを聞いてくれるようになった。
今迄、彼等はテスタ-で電流を検知する知識も経験もなく、直接電流に触れて手指のしびれ具合で電流の強弱を判断していた。また、クランク振れの調整も経験と第六感により行っていたが、ダイヤルケ-ジの使用方法を教えると、その正確さと便利さに驚き、良き方法であると始めて知った具合である。このように旧工員の陳腐化した固定観念と悪習慣からの脱皮と考え方の改造は、徐々に進められたが、容易ならざる仕事で苦労の連続であった。
台湾のオ-トバイ産業は、最初国産品指向で取り組んだメ-カが数社あったが、品質とコス卜の問題で結局輸入の日本製品と対抗出来ず敗退して消えて行った。1963年前後は日本のオートバイ市場は不況で業績悪化や倒産する会社が続出していた。戦後乱立した大小のオ-トバイメーカが次第に淘汰されて行くと、エンジンを含む主要部品メ-カが保有する在庫の放出が始まり、そのほとんどが商社を通じて台湾に流れた。台湾に部品として流入した日本製エンジンを搭載した台湾製のバイクは、価格も手ごろで庶民に愛好された。しかし、ユーザ-のブランドや高品質指向が強くなると、高価な日本製や欧米製の人気機種の輸入が増加して、台湾の二輪車市場は市民のライフスタイルにマッチしてさらに拡大して行くことになる。
この時期には人気機種でシエアの高い本田技研工業、スズキ、ヤマハ、等が海外市場の確保と安い労働力を求めて、台湾の企業と技術提携を行い現地生産を開始した。我が社も川崎オートバイの本社に出かけ合弁交渉を行ったが他社の橫槍で放棄せざるを得なかった。
その後、日本のメ-カは東南アジアを含め世界に海外生産を拡大させたが、主要部品の現地調達率の向上を含めて、台湾はその先鞭となり台湾の二輪車産業に大きな刺激と力を与えた。我社即ち東星工業がOEM生産で米国向けバイクの輸出を成功させたが、工場で二年余り勤務した後に、本社の貿易部門を任され帝国ピストンリング、アート金属のピストン、大セルのアセチ(眼鏡材料)の代理店及び丸紅飯田を通じて東発、川崎オートバイ、穗高等の会社から完成車、エンジン、関連部品を輸入して台湾内の取引先に販売した。
日本の事情に詳しい私は、頻繁に日本へ出張し、代理店契約をしている会社や関連工場を訪問し買付け商談を精力的にこなした。特に、東京大手町ビルの丸紅飯田を訪れると、Aクラスのバイヤー待遇で親切にされ島尾部長、大西部長代理、伊藤課長(伊藤副社長の息子)、阿谷部員(後バンコクの丸紅小会社社長に)の方々と交わり、さらに数多い日本の友人と日台友好の結びを深めた。
【69】ア一卜金属(ピス卜ン)KK技術合作誘致
台湾に於ける二輪車産業の好景気も三年を経過すると、日本の後を追うように戦国時代に入り販売競争は熾烈を極めたが、オ-卜バイ及び自動車の増加で、将来高品質ピス卜ンの需要が増加すると判断して、台湾現地生産を実行するために丸紅飯田を通じてア-卜金属株式会社に技術提携の話を持ちかけたところア-卜金属側は興味を示し、榊原社長が浪花課長を同行して我社を訪れ、具体的な商談がまとまった。商談後、台湾最南端の観光地へのドライブの車内で、社長は若かりし頃、本田技研工業の本田宗一郎社長とともに、オ-卜バイいじりに熱狂し、やがて彼はピス卜ンの製造に着手して本田技研に納入して苦労した昔話を語ってくれた。
1966年6月、技術提携契約に正式サインした
後、早めに実習生をア-ト金属の工場に派遣するために、蘇承和君(蘇社長の從弟)が選ばれ、夜の時間を利用して我が家で日本語会話の補習、ア一卜金属社提供の金属材料に関する知識を教え、ア-卜金屬の工場に送りこみ一番重要な熔解技術を習得させた。蘇君は傑出したピス卜ン関係の技術者として成長した。
この合弁企業投資は前例がなくNT$100万元を費やして取得したノウハウと加工機械を輸入するために、政府に申請する許認可の諸手続きは意外と難しく複雜で、中文、日文、英文書類の夕イプ作成等を含め関係官公庁との折衝に苦労し忙殺された。そして、新会社の社名を「正道工業股份有限公司」と名付け、東星工業所有の土地3千坪を工場用地とする個別の独立会社として登記した。同社はピストン製造の優良工場として成長し株式を上埸して発展した、私に対して会社側から会社創立の貢献者で是非株主になるようにと誘われたが、金錢の余力がなく残念ながら放棄せざるを得なかった。
ア-ト金属とのピストン製造に関する技術提携が整い操業を開始し、東星工業と華成貿易の業績は安定し順調に推移していたので安心し、長い間世話をしてくれた蘇社長に感謝の意を述べ、会社を飛び出して自分の道を開拓したいと退社願いを提出したら、なかなか許可してくれなかった。私の決意は固く話し合いの結果、お互いの前途を祝福し、名残り惜しいが5年間苦楽をともにした東星工業と華成貿易に別れを告げ辞した。
1969年1月、同社を去るにさいして謝意の言葉として、過去、私が経営上で特に感じた「工場管理とIEの重要性」を述べ、近代化したオ-トバイ工場に早く脱皮し能率を上げ技術、品質、コス卜の面で他社を引き離し、市場を拡大するよう促がしたが、私の退社二年後、せっかくオ-トバイで儲け、敷地、工場を拡張して大企業としての成功が約束されていたかのように見えたけれども、投機的な土地不動産ブ-ムに踊らされて手を伸ばし、バブル景気で大儲けすると本業が疎かになった。その後バブルが弾けると地価の大暴落を招き、不良債務の増大と資金回転で狂いを生じ、取り返しのつかない破目に陥り、会社と私財の全部を失ったと聞いて残念で堪らなかった。
蘇社長は人柄の立派なクラスメイ卜であったが経営理念と判断ミスで失態を招いたことは非常に気の毒で、今でも思い出すと辛く同情に絶えない。
華成貿易と代理店関係で長年取引のあった日本の各商社は、蘇社長の経営失敗に驚き責任者を台湾に出張させ、真相の調査で私と会い、代理権を引き継ぐよう要請があったが、今迄お世話になった蘇社長への義理を考え関連のある商売は、受
入れることは出来ないと固く辞退したが、友好関係は従来通り保持して行くと約束し、その後も付き合いが続いた。
【70】高雄加工区にカネカロンカツラ製造工場の誘致
1969年1月、華成貿易を退社した直後、丸紅飯田台北支店の創立者である全田氏が、突然台南の自宅に訪れて来た。用件は米国のブロ-バ時計の極東総代理店で、洋食器輸出のトップ商社で、東京銀座四丁目に本杜を置く加地貿易株式会社が台北事務所を開設するために台湾人の責任者を求めているので、一応考慮して見ないかと言うことであった。数日後、加地社長が東京で直接私と面接したいとの連絡で、出国手続をとり銀座の本社で社長にお会いしたら、その場で即決と言うことで早速入社することになり、帰台すると直ちに台北市内の目抜き通りである中山北路一段に隣接した、旧六条通りに事務所を開設した。加地貿易株式会社台北事務所が開設されると、私の人脈を頼りに半年足らずの間に数々の商談を成立させ事務所を軌道に乗せた。さらに、私の人脈で高雄の輸出加工区で鐘ヶ淵化学工業株式会社(大沢社長)との合弁で100%日本側の出資で、当時花形産業であったカツラ製造工場への投資を決定した。しかし、当時、原材料である鐘ヶ淵化学が開発した人工毛髪の「カネカロン」はテス卜段階であり、今までヒュ-マンヘア-に頼っていた台湾のカツラメ-カは見向きもしなかった。
その後、カネカロンを使用したカツラの商品化が成功し極めて良好な結果を得ると、香港や韓国ではカネカロンブ-ムを巻き起こし、台湾メ-カの売上げが低下した。これに慌てた台湾メ-カ-は原材料のカネカロンを欲しがったが入手することが出来ず、その矛先を鐘ヶ淵化学の台湾に対する直接投資への反対運動となって表面化した。私は余計な紛爭を回避するために、表向きには加地貿易の投資と言う形で、秘密裏に計画を開始して政府当局に対して投資の申請を行った。
新会社の名称については、同年7月、人類が初めて月面に到達した米国NASAのアポロ宇宙船計画の成功を記念して、私の提案したアポロウイッグ会社「APPOLO WIG CO.」と名付けた。現地法人会社である同社の董事長(会長)には加地貿易の取締役が就任し、総経理(社長)には私が就任した。そして、工場建設の申請手続から許可に至る迄、すべて私に委任され秘密保持のために、台南の自宅で書類を作製、政府経済部(経済産業省)に提出して審査を受け、一ケ月で無事に工場設立許可証を取得し、高雄加工区内での工場建設に着手した。
アポロ工場の建物が完成すると、東京加地貿易本社から業務担当の佐藤氏(小樽商大卒、後に西部百貨店貿易部長)、財務経理担当の関根氏の二人が赴任し、工員の募集を開始すると、加工区内で外省人が経営するカツラ製造の同業者が大挙押し寄せ、鐘化の直営工場だと騒ぎ出し非難を浴びせて、日本人排斥を叫んだ。事態の深刻さに驚いた私は冷靜に対応して、日本人に対して絶対に手を出す勿れと厳重に警告して、相手側に代表者を出させて話し合いをするようにと呼びかけた結果、彼らにOEM(相手先ブランドによる下請生産)で委託生産を請け負わせることで円満に解決し一件落着して安堵した。
その後、アポロ工場の幹部として広田氏(小樽商大卒)、永野氏(慶応大卒)及びカツラ縫製の女子指導員とミシン技術者の6人が相継いで着任したので、現地スタッフとして協力してくれる台湾人の管理職を選考採用して台湾最大規模の最新カツラ製造工場であるアポロは正式に発足した。
当時、高雄加工区内で100%外資の会社で、唯一台湾人の総経理(社長)として一番若かった私は、政府経済部に所属する同加工区呉処長には格別の配慮と庇護を受け、さらに官員の特別なる支援をもとに、工場管理経験を生かして努力した結果、業務の方も極めて順調に推移することが出来た。原料、製造ともに、販売市場に優利なポジションを有するアポロ工場の製品は、日本向に鐘化のカツラ製品フホンテ-ヌブランドだけでも月間5万個を出荷し、加